Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

飯田線よもやま話②

2007-12-16 20:10:48 | 歴史から学ぶ
 昭和52年に信濃毎日新聞で連載された「飯田線よもやま話」からの話題、その②である。

 それにしても、当時の新聞の字の小ささは見事である。現在の新聞の字が10ポイント程度だとしたら、当時の字は6ポイントかそれ以下というほどだ。昔の人たちも老眼鏡というものをかけてはいたが、それにしても当時の新聞は、とても年寄には苦痛な大きさだったに違いない。それでもそんな新聞を食い入るように読んでいた祖父の姿を思い出す。そんな祖父と新聞の取り合いをしたものだ。

 同連載の第4回で取り上げられているのは、「短い駅間距離」というものだ。さきごろ息子が入院した際に、その病院に行くのに、どの駅が最寄りになるのか、などということに触れた。病院を巻き込むように走る飯田線の駅からみると、病院との距離の長短はあるものの、到着時間が同時ではないから、どの駅も同じくらいの病院到着時間となる。そのなかでどう選択するかということになるが、それほど電車を利用して病院へ通う人はいないはずである。記事では伊那北高校の生徒が、最寄りの駅である伊那北駅に間に合わなかったら、伊那市駅に走れば間に合うという話しで始まる。伊那北駅16時46分発上り電車、伊那市駅の発車は16時54分である。その差8分の世界なのだが、その8分で乗り遅れた場合は伊那市駅まで走れば間に合うというものだ。駅間距離は約900メートル。それほど足の速い人でなくとも十分の時間だという。行き違いのための停車時間が長いケースなら、かなり離れている駅でも走りに自信があれば間に合うということになる。現実的にそういうケースを体感するのは高校生に限られるかもしれないが、わが家でも最寄りの駅に間に合わないとなれば、ひとつ先の駅まで息子を車で送っていくなんていうことは頻繁にある。それほど電車の進行は早くないということなのだが、それが客離れをした要因にもなっている。とはいえ、渋滞している道路も早いとはなかなかいえず、わたしが電車に頼るようになった要因も、ガソリン代の高騰ではなく、電車と変わらない速度にあった。それほど変わらないのなら電車の方が楽であり、寄り道ができないという欠点はあるものの、現実的にそう思っていても寄り道することはほとんどなく、またもし寄り道をしたとしてもほとんどが無駄な暇つぶし的なものになっていた。

 話しがそれたが、生活者重視としたら、駅は多くあればあるほどに利用しやすい。そんな駅間900メートルの伊那北―伊那市駅間であるが、実はこの駅間にかつてはもうひとつ駅があったという。「入船」という駅で、伊那市駅から300メートルのところにあったという。飯田線に統合される前の伊那電気鉄度時代のことというから、知っている人はもう少ない。昭和18年に廃止された駅という。当時はマチの中心がこの入船あたりにあったようで、昇降客はもっとも多かったという。マチが入船から南へ移るにしたがい、現在の伊那市駅周辺が中心市街地に変わっていったようだ。

 さて、飯田線の駅間が特別短いというわけではないだろう。現在飯田線でもっとも駅間が短いのは、旧佐久間町の出馬(いずんま)駅と上市場駅間といい、その距離は600メートルという。全国的にみるともっと短い駅間があって、第3セクターの松浦鉄道、「佐世保中央」~「中佐世保」間は200メートルという。ちなみに飯田線の駅間最長区間は、旧佐久間町の北隣にある旧水窪の水窪駅~大嵐駅間6.5kmである。
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「千社参り」その後

2007-12-15 13:35:43 | ひとから学ぶ
 以前伊那市青島の「千社参り」について触れた。さきごろ青島の人と会うことがあってそのことを確認してみた。かつては周辺の集落でも行われていたというが、もうずいぶん昔から青島だけで行われる行事になってしまったようだ。7月末に行われていて、その当日の朝に集ると、九つある隣組(青島全体では約100戸ほどという)ごとにくじを引くのだという。そしてそのくじによってお参りをする地域が決められる。基本的には伊那市内を区切っているようで、西春近とか富県、東春近、西箕輪などという具合に地域割りされているという。そして伊那市外として現在は伊那市に合併している高遠地域もくじ引きのひとつに入るという。自らの居住している地域が当たることもあって、そこを引けば自転車で廻れるほどだという。もちろん昔は歩いて廻ったものなのだろうが、今は車で廻ってしまう。お参りを兼ねて、その日にちよっとした旅行をする隣組もあれば、温泉に入りに行く隣組もあるという。隣組ごとの親睦の1日となるわけだ。

 千社札はひとつの隣組に100枚ほど配布されるのだろうか、厚みにして3センチほどの束が配られる。くじで当たった地域の神社や石碑などをお参りするのだといい、必ず廻らなくてはいけない対象があるわけではないようである。神社以外にも路傍の石碑などにも千社札を貼ってゆく。そんな行為に対して苦情もくるようで、「石に貼らないでくれ」などといわれることもあるという。札に「青島区」と記入しているから、だれがやったかはすぐに解るわけだ。そんなこともあって、貼らずに置いてくるだけにすることもあるという。とくにその意図のようなものは知らされていないようだが、天竜川の支流の三峰川の氾濫原にある集落だけに、かつては水害に頻繁にあった地域である。そうした立地が、「神頼み」の行事を継続してきた原点にあるのではないかという。中には辞めようなどという声もあるとはいうが、「なくならないだろう」とその知人は答える。千社札に明確に「青島区」と書かれているから、基本的には区の行事であるものの、信仰の自由を口にする時代だけに、区の神社係が担当しているという。いずれにしても隣組単位でくじを引くわけだから、自治集団の行事であることに違いはない。参加しないという人もいるようだが、隣組単位というなか、暗黙の中で行事は継承されているのだろう。伊那市美篶といって盛んに宅地化が進んでいる地域であるものの、この集落にはあまり新たな入居者がいないということも、そうした行事への異論が出ない理由にあるかもしれない。

 この地域では現在代参も継続されていて、代参に行くのは秋葉神社と戸隠神社という。わたしの生家の地域でも、わたしの子どものころは代参に行くといって父が出かけていったことがあったが、しばらくしてそういう声も聞かなくなった。廃止されたものではないのだろうが、代参そのものの参加者数を減らしたようである。青島では全戸でくじを引き、場合によっては1年に両方の代参に行くこともあるという。自治組織と信仰は切り離せるものではない、という事情を知ることができる。
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死に支度を考える①

2007-12-14 12:37:46 | 民俗学
①寺の危機

 「老い支度、死に支度」でも触れたように、自らのことを思いながらも死に至るまでにやらなくてはならないこと、また死後のこと、などを家庭をもったときから考えてきた。それは自らのことだけではなく、身近で亡くなるさまざまな人たちとの記憶、そして変容をとげてきた葬儀の姿を見ながら思う、自らへ投げかけている課題なのだ。中日新聞に最近「少子高齢化時代の葬儀の゜あり方」という記事が二度にわたって掲載された。「現代の葬儀かあまりにも厳粛ないのちの引継ぎを欠いている」と指摘する大正大学の藤井正雄氏の連載記事である。もともと「葬式仏教」といわれる日本の寺の存在。藤井氏が指摘するのは、「葬儀式の重点が故人がいかに現代社会に生きたかといった、仏教とは直接関係ない故人の業績に移ってきた」という。確かにイベント化する葬儀の中で、故人の業績をパンフレット化して配布するなどということもされるようになった。葬儀が親族だけのものではなく、不特定多数の関係者に広がるにつれて、芸能人の葬儀と変わらないような葬儀の存在が目に付くようになってきている。そのいっぽうで、生前に交友の少なかった人たちや、長い闘病生活にあった人、もちろんその背景として親族がみな地味な暮らしをしてきた人たちの葬儀は、密葬ではないのに密葬に近いほど寂しいものとなっている。

 地域で継承してきた葬儀は、明らかに個の葬儀になりつつあり、それは地域社会の崩壊だけにあらず、人々の意識が多様性を帯びてきたり、少子高齢化という社会の現実が生んできた親族の減少というところにもよるだろう。藤井氏はこうもいう。「故人が会社を起こし社会に貢献し有名人になっていようが、黙々と雑草をむしっている名もない老人とどう違うのか」と。直接的に人の死にかかわることが、子どもが少なくなったということにも関係して減少し、自らも祖父母の死後、葬儀と言うものにあまり縁がなかった。そうした中で葬式仏教がどう変化してきたか直視していないが、藤井氏がいうには、戒名のつけ方は大きく変化してきているようにもうかがえる。金で戒名を買う時代、葬儀の意味するものが変化しても致し方ない現実を産み、それはますます葬儀というものの考え方が問われてきている時代かもしれない。もちろん葬儀だけではないだろう。そうしたなか藤井氏は、さらなる高齢社会化は、さまざまな経済負担が若い世代にのしかかり、いずれ葬儀に対してより経済的な意識が働くともいう。檀家が半減することは当然の成り行きである。このことはわたしも以前から認識していて、現在も住職だけでは生業がなり立たないから、住職という仕事が片手間という寺も多い中、いずれ地方の寺はなくなっていくだろうと予測している。わたしの生家がある地域にも古式ゆかしい歴史ある寺があるが、町中の檀家を一手に請けたとしても、人口減や多様化によって、胡坐をかいているようなことでは生活が立ち行かなくなると考えている。

 寺の危機ともいえるのだろうが、このことについては福澤昭司氏が、「葬儀社の進出と葬儀の変容」(国立歴史民俗博物館編『葬儀と墓の現在―民俗の変容―』2002年 吉川弘文館)の中ですでに触れている。松本市域の葬儀社への葬儀の移行のなかから、まとめとして述べている「葬儀の行く方」において、葬儀社へと葬儀の場が移るなかで「次の変化が予測されるのは、葬式への寺のかかわりである」と述べ、「寺に付属しない公設の霊園を求めた人々にとって、寺はどれほどの意味をもつのだろうか」という。その果てには、結婚式場に専属の神主や神父がいるのと同じように、葬儀社が専属の僧侶をおいても不思議ではなくなる。それがまだ崩れずにいるのは、まだまだ檀家と檀那寺の関係が強いとともに、そうした関係へ葬儀社も足を踏み入れなかったからだ。しかし、かつての地域社会、そして冠婚葬祭というものを伝統的に考えてきた民俗社会はことごとく消え去ろうとしている。そうしたなかに、どれほどコミュニティーが必要だといって地域社会が見直されようと、寺の必要性を感じる人が減ることに変わりはないはずだ。

 とすれば寺は葬式仏教を見直し、人々のこころの助けになるような存在で立ち直るしかないように思うわけだ。
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飯田線よもやま話①

2007-12-13 12:11:45 | 歴史から学ぶ
 昭和52年のいつごろのものかは記録していないのだが、信濃毎日新聞において、「飯田線よもやま話」という7回の連載記事があった。このときの記事の切り取りが、なぜかそろってふたつ残されている。自家でその新聞を購読していたが、2部もとっていたわけではない。よほど興味があったとみえて、よその家の新聞を手に入れてきて保存したのだろう。そのふたつ用意したことの意図は思いだせないが、当時、盛んに新聞の気になる記事をスクラップしていたことから、1度スクラップした後に、再度どこかで同じ新聞をまとめて手に入れた際に、一度スクラップをしていたことを忘れていて、再び切り取ったのかもしれない。

 いずれにしてもこの記事、当時は気に入っていた記事であることに違いはない。昭和52年といえば、盛んに電車通学をしていた時代である。けして電車に興味を持っていたわけではないが、この記事はそれまで意識していなかったことを教えてくれた。

 第1回に登場するクモハ52は、その記事から1年以内に廃車された。まだ国鉄時代の話である。流線型のこの車両、そうはいってもめったに飯田線を走っていなかった。1日に一度程度ということだったようだから当たり前で、その気になって乗る気でもなければお目にかかることもない。記事を読んでから、意識していて何度か拝見したことはあるが、乗車したことがあったかは記憶にない。この車両、戦前の車両だったということで、新幹線のモデルにもなったという。動く博物館的なイメージの当時の飯田線だったのである。クモハ52も当然そうだが、当時の座席は木枠で作られていた。なかなかレトロなイメージだが、お払い箱の吹き溜まりみたいにも言われて、マニアにはともかく、日常の利用者には評判は良くなかったかもしれない。

 「飯田線を走った車両達」にその車両の写真が掲載されている。さすがにマニアが多いだけに、そのほかのページでもたくさんの写真を拝見できる。

 そういえば当時は飯田線の複線化などという要望もあった。高速化を図るには手っ取り早い手段であるが、赤字の国鉄にそんなことができるわけでもなく、今思うと、当時の要求とは現実的でないというか、実現性のまったくないことを要求していた事例が多い。そんな時代から今の時代を予想していたら、その地域は違っていたことだろう。第1回の冒頭で、スピードアップを図るために、飯田線特有のカーブの解消が求められてきたが、それは「財政的にも技術的にも難しいことがはっきりした今・・・」という問いかけで始まっている。この記事の数年後に、中央東線は岡谷と塩尻を結ぶ塩嶺トンネルが開通し、飯田線はますます遠い存在へと追いやられていくことになる。
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姓は人を表す

2007-12-12 12:22:41 | ひとから学ぶ
 妻が言う。「こんな人、結婚していないんじゃない?」と。NHKBS2で10/9に放映された「熱中時代」をたまたま見ていたら、伊那市の住人が登場して、それから「どこだろう」などと見入っているうちにその熱中人の企画を最後まで見ることになってしまった。俳優の藤岡弘が熱中人を訪問するという企画である。中央道の工事中、その現場を見ては建設機械にあこがれるようになった少年は、今や建設機械マニアである。家中に積まれた建設機械の模型は2万点を越すという。ひとつ千円としても2千万円、そんな模型の中には海外で捜し歩いたものもあるというから、ひとつ千円でないことは容易にわかる。模型ばかりではない建設機械のパンフレットも海外ものまで含めてたくさん積んである。「世の中にはいろいろな人がいるんだとまたまた教えられる。

 さすがに模型だけにあらず、本物の建設機械を何台もコレクションしているというのだから、さすがというか、都会ではできないコレクションである。昭和34年のバックホウを藤岡弘が操る。昭和34年といえば、建設機械がまだまだ少ない時代のものである。その機械が動くと言うのだから、そのメンテナンスも含め、これ以上のマニアはいないかもしれない。見ているうちに「土建屋さんだよねー」と思っていたらその通りである。そして「こんな人の奥さんにはなりたくない」という妻の発言が何度も繰り返されるなか、このマニアの方の奥さん登場である。中央道の建設時代を知っているということだから、我が家と世代は同じくらいか、と思っていたが、子どもさんはまだ小さい。「よく生活できるなー」などという下世話な疑問はともかくとして、土蔵風の博物館まで造りまもなく完成という。まさにNHKが捉えるだけの価値ある熱中人である。

 さすがと思うのは、この方「土田」さんという。建設機械といえはび土木工事だから、みごとに姓に似合う仕事と趣味である。サザエさんや○○ではないが、フィクションなら姓とドラマがわざとらしく合わせてあることは常だ。しかし、意外に世の中、姓名と生業が一致しているケースが見られる。「さすがに名前そのものだ」と言わしめるほど一致しているときもある。けして姓を職業に合わせたわけではないだろうが、歴史上ではそういうこともあっただろう。それが今に継続しているとは思わないが、不思議な話しである。同じようなことをたまに自らのことに合わせて思うことがある。わたしの姓には石がつく。父は「石屋」だった。もの心ついたころに、すでにそう思ったものだ。そして、自らは石屋にはならなかったがずいぶんと石に関わったことをしている。知らす知らず、姓が自らをそういう雰囲気にさせていくのだろうか。
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老い支度、死に支度

2007-12-11 12:11:33 | ひとから学ぶ
 12/8付信濃毎日新聞の「人生80年時代老い支度、死に支度」を読んでいて、またまた死へのアプローチの仕方を考えることとなった。わが家でもどちらが死んでも葬儀は密葬という考えだ。オープンに葬儀はしない、したくないという考えは、それぞれがとくに業績を残しているわけでもないし、会社に沈んでいた人間は、毎日が会社との行き来、そして長男でもなかったから、そんな毎日では自らの地域らしきものも実感としてはない。ようは知人もいなければ友人も縁遠い。会社に沈んでいた今の実感としては、会社の人たちにおくられるほど、わが身が寂しくあってほしくない、というどちらかというと偏見のようなものもあるのだろう。だから今だからそう思うだけで、年老いてきたらその考えは変わるのかもしれない。

 しかし、いずれにせよ、お互いがそう思っている以上、この考えはそう簡単には曲がらないだろう。妻にいたっては農業を実家で営んでいるのだから、それこそ付き合いに変化がない。そう思わざるを得ないほど交流が少ないということなのだろう。必ずしもそれを悲観することでもないが、この現代においてはそうした現実が負力を持つこともあり得る。まだわたしのように、外部と接触している人間は〝まし〟な方ということになるだろう。だからこそ、より強く妻は葬儀を行わない、にこだわる。

 新聞ではまさに老い支度と死に支度という始点で書かれている。「子どもはわたしの付き合いがわからない」、だから死んでも自分の葬儀はしないように、という安曇野市の女性は、来年生前葬を行うという。今まで出会った人にお礼を言いたいのだという。好きな野の花を飾り、1人1人にメッセージカードを贈る。地元の歌手のコンサートを開くともいう。このごろは普通の葬儀でも、結婚式のパンフレットのように生涯を紹介したものを入れたりする。葬儀そのものもイベント化している雰囲気もあるが、イベントだと思えば生前葬のような葬儀もありえる。もっといえば、いきなりやってくる最期よりは、あらかじめ予定された日に、そして生前にお別れが言えるというのなら、これほど願ったものはない。世の中の人から「長生き」と思われるようになれば、そんな葬儀があってもよい。現代のように親子が同居していないともなれば、子どもたちに親の付き合いはまったくわからない」となれば、葬儀に見ず知らずの人がやってきても、子どもたちには何も対応ができない。現代の人間関係には生前葬こそ整合していると思える。

 記事ではもうひとつの視点に触れている。墓地のことである。これもまたわが家ではお互い「骨はいらないよね」というほどに墓地の必要性を感じていない。大阪から生坂村に移り住んだ夫婦は、大阪に戻るつもりがないからといって、先祖の墓も含めて、松本市新宮寺に納骨の場を求めた。昔なら家ごとの墓があったが、家というものがこれほど崩壊してくると、墓はあっても誰も面倒をみてくれない、なんていうことはどこでも出てくるだろうし、すでにそうなっているだろう。それを解消するには、共同墓地ではなく、共同の墓碑ということになる。新宮寺にある夢幻塔には約250人が供養されているという。生坂村の夫婦が言うように、「(ここなら)みんなおるから、にぎやかでええわ」は合理的なあの世への扉かもしれない。

 どちらの視点も、わたしには〝ぐっ〟とくる死に支度である。
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原材料名表示から

2007-12-10 12:17:38 | ひとから学ぶ
 わが家でインスタント食品というと、カレーのレトルトパックを利用する。もしかしたらカップラーメンより多用しているかもしれない。けしてカレーを自家で作らないというわけではないが、いただいたものがあったり、たまには違う味を食べたい、なんていうこともあって妻が生協で購入したりする。ちかごろ妻かよく購入するインスタントパックは、北海道チクレン農業協同組合連合会の販売しているものだ。そのラベルにの原材料表示は次のようである。

「野菜(玉ねぎ(国産)、じやがいも(国産)、人参(国産)、にんにく(国産)、しょうが(国産))、牛肉、牛乳、ココナッツミルク、ショートニング(牛肉を含む)、小麦粉、牛脂、中濃ソース(りんごを含む)、トマトケチャップ、はちみつ、食塩、カレー粉、砂糖、野菜粉末(玉ねぎ、トマト)、香辛料、フルーツチャツネ(バナナを含む)、ウスターソース(りんごを含む)、チキンエキス、ビーフエキス、バナナペースト、カラメル色素、乳化剤(大豆(遺伝子組み換えでないものを分別)由来)、香辛料抽出物」

 そして欄外には「遺伝子組み換え(GM)対策:原材料のばれいしょ(じゃがいも)は国産です。乳化剤の大豆は遺伝子組み換えでないものを分別。チキンエキスで使用している、仕込み重量割合で1%未満の酸化防止剤(ビタミンE)の原材料が課題です。」と表示されている。最後の「課題です」とは何を意味しているのか、ちょっと理解できない。酸化防止剤の表示をしていないものの、チキンエキスの原材料にビタミンEと表示されていて、それが課題だという意味だろうか。ちなみに、この生協扱いのレトルトパックとは別に、わたしがよくいただく業務用のレトルトカレーを見てみる。するとそれには次の用に表示されている。

「野菜(にんじん、ばれいしょ、たまねぎ)、小麦粉、牛肉、豚肉、肉エキス(ビーフ、チキン)、果糖ぶどう糖液糖、トマトペースト、ウスターソース類、野菜・果実ピューレ(にんにく、りんご、しょうが)、カレー粉、でん粉、食塩、砂糖、チャツネ、しょうゆ、香辛料、調味料(アミノ酸等)、カラメル色素、増粘剤(タマリンド)、(原材料の一部に乳成分、ゼラチンを含む)」

 前者と比較すると、原材料(添加物)の数は前者が多い。添加物が多いというように捉えられるかもしれないが、おそらく業務用の方が怪しいはずだ。表示する原材料が加工が繰り返されていると、表示義務としては少なくなるはずだ。ようはソースの加工品なら「ソース」と表示すればよいだろうが、ソースそのものから製作すれば、その原材料も表示されることになる。だから一概に添加物が多いからと言って、比較にならない。より加工品を利用していない品物の方が怪しくないということになるのだろう。

 ところで前者には、野菜の表示に必ず(国産)という表示がされている。食品売り場でレトルトカレーをいくつも裏返しては確認してみたが、野菜の原産地が表示されている品物は見当たらなかった。だからといってそれらの野菜の原産地が国外だとは言わないが、加工品には多量に中国産を含めた国外産野菜が使われていることは確かだ。このごろの偽装問題からすれば、表示されていたからといって信用できるとは限らないが、消費者にとっては信用せざるを得ないわけで、国産と表示されている方が安全であると思わずにはいられないわけだ。このように原材料表示というものもさまざまで、それを消費者がどう判断すればよいものかということになる。高ければ「安全」ともいえないが、安いものは「危ない」のは確かである。ちなみに、この生協扱いのカレー、1パック300円以上するようだ。スーパーや安売り店でも300円以上のものをみるが、それらにも野菜の原産地を表示しているものはない。

 もうひとつ、近ごろ焼きそば屋さん特集をどこかのテレビでやっていたが、ある焼きそば屋さんの味技は「業務用カゴメソース」と言っていた。テレビの出演者も???という感じであったが、市販品の業務用と一般用の味は同じではないのかと思うのだが、違うとしたら、業務用の方が粗雑なもので、そのために味が違うというくらいではないたろうか。業務用の方が「危ない、怪しい」と思っているが、それは間違いだろうか。
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軽い車両と重い車両

2007-12-09 13:20:46 | つぶやき
 毎朝乗車するクハ312系の電車は、飯田線にしてはめずらしくお払い箱ではない車両である。座席の数からすると、従来のものより少し少なめなのかもしれない。だからといって座れる客が少なくなるというわけではない。松本市域の電車に乗っていると、混雑していれば空く席がないほどみな詰めて乗車してくれるが、飯田線あたりでは高校生が多いからなかなかそうもいかない、などということを前にも触れた。ようはたとえ席が空いていても、その空いた席が埋まることは必ずしもないということなのだ。その要因のひとつとして、相向かいの4つの座席、1人座っていてもそこへ見ず知らずの人がさっと座るとは限らない。2人座っていたら、さらに2つの空席が埋まりにくくなる。4つもあってもせいぜい2つともなると、その着席率は低いことになる。ところがこの車両、座席を裏表にして向きを変えることができるから、相向かいではなく、2人がけ座席を増やすことができる。不思議なもので、あい向かいの4座席の空白には入りにくいのに、2人がけの空白ひとつには入りやすいのだ。

 車掌さんは、乗客が少なくなると、あい向かいになっている座席を進行方向に向けて直してゆく。できるだけ2人がけ状態の空間作りをしているわけで、もともとのこの車両の意図するものは多くの乗客に利用してもらうという意図があったに違いない。

 新しい車両だけに、乗客が少ない状態で駅に停まり、1人の乗車客でも車両がけっこう揺れる。車体が軽いのだろう。例のJR福知山線の脱線事故でもわかるように、事故では跡形もなくつぶれてしまうかもしれないが、もともと電車での事故は少ない。守られた空間を走っているということもいえるのだろうが、こうした軽量化は、山間の、またカーブの多い路線ではメリットが多いのだろう。従来の重そうな電車に比較すると、ずいぶんと動きがスムーズである。わたしが乗車して駅を出ると、しばらくは上り坂となる。ところがその上り坂を、自動車でいえばターボ車に乗っているように背中を押される雰囲気で加速してゆく。明らかに、従来型車両ではない走りである。ということで乗っていて快適な空間ではある。しかし、休日の乗客の少ない際には、従来型の重そうな車両がまったくのローカルイメージを醸し出す。わたしはまだ特急「伊那路」というやつに乗ったことはないが、おそらく観光客向きなのだろうが、やはりこのとんでもなく鈍い路線には、そんな従来型の車両が似合う。
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長野県観光はこんなもの

2007-12-08 15:05:47 | つぶやき
 信濃毎日新聞12/5朝刊に、上高地への観光客の入り口が松本側から高山側に移りつつあるという記事が掲載されていた。中部縦貫道計画の一環とし開けられた安房トンネルの開通後、上高地への玄関はしだいに長野県側から岐阜県側に移っているというもので、その数字を示している。まだ長野県側からの入り込みが多いようだが、グラフを見る限り、いつかは逆転しないとも限らない(それはないと思うが)。それに対して長野県側は、上高地が長野県の観光地にもかかわらず、まるで裏口から入られているような現実に危機感を感じているわけだ。確かに観光関係者にとっては、表側である自らの地は、素通りどころか通過もしてくれなくなるのではないかと危惧するのも解る。その解決策のひとつとして、田中康夫知事時代に建設促進が停止した中部縦貫自動車道の建設促進を前面に出そうとしている。

 かつて観光シーズンといえば、松本側から上高地への道は大渋滞を起していた。沿線の波田町は、この道路を中心に集落が展開しているところもあって、その渋滞は生活を圧迫していたわけである。波田町だけではない。その奥の奈川村や安曇村も同様の苦労をしてきた。まずは生活する人たちのためにも、観光客と生活者を分離する道路が求められたわけである。かつてのように冬季に通行止めとなる安房峠では、通過する人々にとっては不都合きわまりないわけで、長野県内にはそうした道路が今でもあちこちに存在する。もちろん上高地そのものも冬季には閉鎖されてしまうから、その季節は観光客を目当てにすることはできない。しかし、冬季にも高山―松本というラインが通じていれば、観光客がまったくいなくなるというわけではない。

 記事にもあるように、岐阜県側の方がトンネル開通によるメリットは大きかった。それは当たり前のことで、東京に近くなるという大きなメリットがある。長野県側からは、その延長上に大きな消費地かあるわけではない。高山が近くなったというだけでは、メリットが小さい。東京の住人が、高山への観光のついでに松本を観光の地に選択する、というケースはあり得るが、どうもそれを実感していないようだ。高山から白川、そして富山に抜けるラインができる。けして松本や安曇野、そして長野県内の観光地がそれらと比較して弱い、という印象でもないが、いずれにしても高山という奥まった地が利便性を向上すれば、今までとの環境差があって、初めて訪れる観光客は増加するはずだ。ようはリピーターをどうとらえるかということであって、当面魅力的な岐阜県側により焦点が当たるのは仕方ないことである。そして、そうした背景の中に、けして岐阜県側から遠くはない上高地が存在していたら、岐阜県側からの観光客が多くなるのも当たりまえのことである。今までは道路が行き届いていなかったから、行きも帰りも松本側からだった。観光とは同じ道を2度通ることはしたくないものだ。となれば、行きは松本側でも帰りは岐阜県側となるのは必然で、その逆だってある。単に上高地への入客が岐阜県側だといって嘆くこともないことで、それを嘆くと言うのなら、もともとトンネルなんか反対すればよかったのだ。

 観光関係者は、中部縦貫道への期待を口にする。「松本まで抜けるか、抜けないかで効果が全く違う。今のままでは長野県側に大きなハンディだ」というのは経済団体でつくる早期建設を進める会である。しかし、観光関係者からも心配されているように、その道が整備されることで、ますます素通りとなることも予想される。作られる観光地もあれば、自然の作り出した観光地もある。いずれ観光客が何を求めているのか、というところによるのだが、観光客の数だけを重視したような観光を推し進めていると、長野県観光のイメージは低落すること間違いない。いいや、すでに低落しいて、まとまりのないアンバランスなイメージは、100円ショップの店内のようだ(ただし、わたしはそれでよいと思っているが)。
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ハザの突き方を読む

2007-12-07 12:17:03 | ひとから学ぶ

 さきごろ仕事で佐久市を訪れた際に、訪れた場所の地形を頭に描きたいと、国土情報ウェブマッピングシステムのページから航空写真を閲覧していた。その写真は最近何度か触れている佐久市内山の滑津川沿いのものである。蛇行する滑津川沿いに水田が点在しているのだが、たまたま中村から相立地区あたりの写真を眺めていて、水田地帯に畦畔ではないラインが全域で満遍なく目だっていることに気がついた。畦が青々してはいるものの、水田に稲はまったく見えない。刈りとり後の水田とすれば、ラインはハザ(ハゼ)である。ちょうど南側から陽があたっていて、東西にハザが設けられているとその影が大きく映し出されている。

 映し出された相立から中村東端までのハザを地形図に落としてみたものが冒頭の図である(赤いラインがハザ)。陽のあたり具合で東西方向のハザはくっきり映し出されているが、南北方向に設けられたハザは、写真からは読み取りにくいことかわかる。したがってハザを完全には再現できていないだろうが、わたしが意図したいことはなんとなくわかるのでこの再現図をもとにハザのことに触れてみる。


1.地形図と再現写真の概説

 再現に利用したウェブ上の写真(写真の下部を横に流れている川が滑津川)は昭和50年(1975)に撮影されたものである。図の下側の山際に現在は国道のバイパスが開通しているが、その道はまだ写真にはない。ただ、よく見るとAからBにかけて現在の国道敷らしき部分が区割されているところから、すでに用地買収がされていたと予想される。また、BとCのブロックは、地形図の区画と写真の区画が異なっている。写真撮影後にほ場整備がされたと思われる。その規模は、区画が整形にされた程度で、水田が拡大化されていないことから、かなり小規模の整備だったといえる。Dの滑津川周辺は、写真より地形図の方がだいぶ川幅が広くなっている印象を受ける。今年もこの川沿いが水害に見舞われているが、写真撮影以降現在にいたるまでに、幾度となく災害に見舞われ、川幅が拡大されてきていることがわかる。


2.一般的なハザの設置位置
 一般的にハザとはどういうところに作るのか、わたしの経験から触れておく。水田というのは、正方形ということはあまりない。長い辺と短い辺があるのが一般的で、長辺と短辺の比は1:3程度のものが普通である。そうした水田にハザを作る場合、長辺方向にハザを設けるわけで、もし短辺方向に設置するとハザの数が多くなることになる。連続していた方が刈った稲を集積する場合も、またハザそのものを作るのにも端部処理のことを考える回数が減るからハザの数は少ないにこしたことはない。また、同じ水田の中にハザが重なることで、風通しも悪くなる。基本的にはこのように作るのが〝普通〟である。


3.内山谷のハザから読み取る
 図からも解るように蛇行した川に沿って水田が展開しているわけで、一般的ではあるが、川に沿って風が吹くということも頭に入れると、自ずと川に平行なハザとなる。もちろん地形も川に向かって傾斜するから、水田の長辺が川に平行にできるか、また直角にできるかによっても向きに変化が現れる。この谷の場合、滑津川の勾配がそれほど急ではないため、比較的川に沿って平行に水田ができている。これが川の傾斜がきつくなると、川に平行に長辺を設けることは難しくなる。また、この谷の場合、川から山の付け根までの傾斜が急ではない。したがって川に対して平行にできる畦畔もそれほど段差は大きくなく、山が接近してはいるものの、比較的平地であるということがいえるたろう。

 ということで条件が恵まれている方だといえるわけで、地形に制約を受けずにハザを作ることができる。写真から判断すると、ハザの高さはそれほど高くなく、いわゆる一段掛けのハザのようである。前述したように川に平行にハザが設けられていることから、川に沿って吹く風で乾燥させようという意図が見える。その理由として、同じ田んぼにハザが重なって設置されているケースが目立つ。とくにCブロックにそうしたハザが目立つ。かなり接近して重複したハザが設けられていて、これでも乾きがよいとすれば、風は明らかに川に沿って吹いているものと思われる。

 2.の一般的なハザの設置位置でも触れたように、長辺方向に設ける姿がここでも普通に見られる。Bブロック、Cブロックではそれが顕著に現れている。いっぽうAブロック、Dブロックにおいては、前者とは少し違う位置にハザが設けられている。Aブロックでは川に直角で、かつ短辺方向に設けているハザが目立つ。とくに川沿いのハザはすべて川に対して直角に向いている。重複していてもそういう向きが選択される意図はどこにあるのか。加えて現在の国道と旧道の間に挟まれた水田は、それらとはまた方向を異にして、南北に近く設置されている。水田の中を斜めに設置することにより、前述したようにハザの数を減らし長いハザを作ることができるが、このブロックの設置方法は異質で見ていていろいろなことが浮かんでくる。谷が東西方向を向いているため、川に沿って設置すると、自然と日当たりが良くなる。ところがこのAブロックは、南側の山に接近しているため、東西方向に設置したとしても日当たりが必ずしも良くないのではないだろうか。旧国道の両側の一帯は、そんな南側の山による日当たりの悪さを避けるために、西日のあたる面を重視しているようにも見える。

 同様にDブロックときたらさらに不規則な並びをしている。Aブロックに比較すると、ずいぶんと開けた地形だけに、風が巻いているということも考えられる。西側で大きく蛇行している川のために、谷に沿わない風が吹くのかもしれない。この不規則でありながら、見方によっては風と日当たりを考えて微妙に変化するハザの姿を見ていると、長年の経験がそこにはあるのだろうと察知する。もうひとつ忘れてはならないのは、水田はみな同じ人が耕作しているわけではないということだ。耕作者のそれぞれの意図というものもあるだろうから、どの水田が誰のものかによっても推測できないハザの向きが現れる可能性がある。そして隣接する水田のハザの設置し方によって風向きが微妙に変化することもあるだろう。

 基本的には長辺に平行に、そしてハザを重ねることなく設置するのが普通なのだろうが、地形に制約を受けるということを目の当たりにする写真である。今ではどうなっているのか、そんな写真でもあれば比較できるのだろうが、印象ではこの当時に比較すれば転作、あるいは荒廃している土地も多いだろう。たまたまこの地域はまだまだハザを作っているようだが、まったくハザの姿を消したような地域では、貴重なハザ突き(わちしの住む地域ではハザを作ることをそう呼ぶ)の資料となるだろう。

 中条村の土尻川沿いの水田を整備した際に、水田の区画を南北方向に区画できないか、という話しがあった。現状をみると、確かに南北方向に長辺をとっている水田もあったが、必ずしもそういう水田ばかりではなかったのだが、その意図するものは、ハザを作る向きにあった。南北に区画するとなると、ハザの向きは東西になるわけで、日当たりが良くないのでは、という印象を受けたのだが、そうではないという。ちょうど土尻川が大きく蛇行する場所で、川とその川が形成した地形が微妙な気候の変化をもたらしているようなのだ。

 ネット上でこうした航空写真がいくつか公開されている。年代を追うことのできるものもあるようだが、そんな写真を眺めていると、農業主体時代の姿をよみがえらせることができることを知った。

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ニホンジカに会う方法

2007-12-06 12:15:23 | 自然から学ぶ
 「伊那谷自然友の会報」134号では、ニホンジカについて特集している。時代の流れともいえるが、特集の視点は食害から始まっている。「人間を守ることを第一義に」の中でも触れたように、このごろ野生鳥獣被害が顕著で話題になっている。自然保護団体も含め、食害にどう対応するのか、さまざまな議論が必要だろう。会長の小林正明氏が触れているが、よく知られた話に南アルプスのお花畑の被害がある。小林氏は、1963年と2007年の三伏峠のお花畑の写真を並べて紹介されているが、写真と言う限られた小さなスペースを見ただけでも、その違いははっきりと解る。2007年の写真は、どうみてもお花畑などという称号は適さない。これほどの変化があるということを、瞬時に教えてくれる事例だ。標高の低い地域の生息密度が高まるとともに、ニホンジカは生息域の高度をあげていった。小林氏の指摘に面白い指摘がある。登山道沿いに生える潅木に食害を受けているものが多いと言う。「シカも藪の中は歩きにくく、登山道はシカの移動路になっている」というものだ。ニホンジカが川を渡るのは苦手だという話は知っていた。そして、積雪の中もだめだという。それが生息域をあげていったというのだから、いかに高山帯の積雪量が減少してきたか、ということもうかがえる。そして示されたように、藪の中は苦手、というまるで人間のような生態である。あの細々とした足では、なかなかほかの獣のようにはいかないということだ。

 生息域をあげていくという事実もあるが、もちろん下げてもいる。それだけ生息数が多くなったということもいえるのだろう。同号において宮下稔氏は、生息域の時代の変化を取り上げている。かつては天竜川左岸の南アルプス山麓に生息していたものが、しだいに西へ生息域を増やしていき、今やかつてはいなかったといわれる中央アルプス山麓でもその姿を見るようになった。実は宮下氏も触れているが、天竜川の西側にまったく生息していなかったというわけではない。むしろ古い時代のシカの遺物が西側でもあったり、また目撃情報というものも伝承として残る。だから西側にはいなかったというのは間違いで、目撃事例がなくなるほど、かつてニホンジカが少なくなった時期もあったということなのだろう。今や農産物被害の最たるものとも言われる。

 以前にも触れたが、わたしは5年ほど前に中央アルプス山麓でニホンジカに遭遇している。そしてその後も何度かニホンジカに遭遇しており、天竜川の東側地域ではあたりまえのように目撃する印象がある。東岸の山間部を縦断する広域農道は、通行量が極めて少ない。その沿線にはかなりのニホンジカが下りてきている。跳ねそうになる、なんていうこともあるだろう。カーブの多い道路だけに、いきなり遭遇などということもありそうだ。「シカってどんな動物」の中で菅原寛氏は、〝シカに会う方法〟なるものを紹介している。①森林帯をひたすら歩く、②夜に車で林道を走ってみる、という二つの方法をあげている。そこまでしなくても簡単に会えるような気がするが、こんなにニホンジカと簡単に遭遇するのはわたしだけなのだろうか。
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追憶

2007-12-05 12:44:30 | ひとから学ぶ
 会社の中長期を見通す12/3会議を終え、改めて自らの力など価値もないほどに小さいことを知り、またそれを認識していれば、何を言われようと自らの考えは砕けることもなくまた自らを見つめなおすこととなる。12回を数えた会議。懇親会ではそんな会議がどれほど重要であったかなどということとは別に、いかに現状は結果よりも厳しく、また将来はせつないのか、などという印象が漂う。かつてのよき時代を、そして会議での思いいれも含め、懇親会では語られる。それはそうだ、常に同じ空間にいる仲間たちではない。別の部署で仕事をしてきたわけで、もし偶然同じ部署にいたとしても、わずかな期間だ。しかし、そんな短い顔色の中からも、それぞれに関わってきた言葉が浮かぶ。思い起せば、わたしにとって最も長い期間同じ部署で暮らした同僚は、せいぜい5、6年といったところだ。そんな同僚も数えれば1人か2人といったところで、すでに多くの長きにわたって同じ空間で働いた仲間は会社をあとにした。噂話としての人間像、そんなものが流れてゆく。「あいつはよく仕事をする」とか「あいつは駄目だ」などという噂はいくらでも流れる。

 久しぶりに席上で前に座った上司は、かつて松本で同じ空間に1年いた。部署は同じでも仕事が違うから、お互いがどれだけ仕事をするかなんていうことは計れるものではない。上司は言う。「寝ているかい」と。かつてたった1年ではあるが同じ空間で過ごした上司にとって、わたしの空間での行動は異様であったに違いない。朝一番くらいにやってくる上司が会社に入ると、すでにわたしは仕事をしていた。そしてその上司が帰る時にもわたしは〝必ず〟会社にいた。ようは常に会社にいたという印象をもたれているのだ。ところが、当時のわたしの行動は、けして会社の空間だけにあったわけではない。単身赴任はしていたものの、必ず水曜日には自宅まで帰り、金曜日も必ず5時半くらいには会社を後にした。ようは水曜日と金曜日はできうる限り定時でしまい、月曜日と木曜日は必ず始業ぎりぎりに会社にすべりこんでいたはずだ。だからわたしにとっては、かならずしも仕事だけの一週間ではなかったし、当時はそんな単身赴任先で仕事外の調査研究をやっていた。今までにも触れたが、「忙しくても自分のやりたいことはできる」を実践できた時代である。そんな割り切った生活をしていても、それ以外の日は必ずといってよいほど会社が閉まる時間、そして開く時間に空間に入っていた。その極端さは、どんなに割り切った生活をしていようと、違った仕事をしていた人たちには、〝必ず会社にいた〟という印象を与えていたのだ。「やつは仕事漬けだ」みたいに言われるのも良いようで悪くもある。それほど仕事一辺倒の人間は、場合によっては妬まれるだろうし、いっぽうで「手の遅いやつ」と言われてもしかたがない。だからこそ、一辺倒ではない自分の割り切りを自らの中で形成していたのだ。それが自分のやり方だと主張できるように・・・。

 そんな曲げない主張は、時には敵もたくさん作った。いや、今もそれは変わらず、敵はたくさんいる。だから、何を言われようと、あまり気にはならなくなった。もちろん20代のころは違った。こんなにがんばっているのに、という自負心のようなものがあって、裏でいろいろ言われるのは気に入らなくなる。モノにあたることもよくあったものだ。新入社員として初めて宿泊の研修があった際、懇親会の席で兄と同い年の同期と取っ組み合いのけんかをして顔を覚えられた。忘年会の席上で陰口を言われてその場にあった消火器を投げつけて暴れたこともあった。ついでにそのまま旅館を後にして、飯田まで約25キロを歩いた。そんなことは何度もある。そんな陰口に対しての怒りを、「なぜなんだ」と繰り返していたが、今やそんな陰口などなんとも思わなくなった。年老いたこともあるだろうが、自らの力の無さと、今更その道を変えることも必要ないほど生きてきたと解っているからだ。

 席上「自分には厳しく人には甘い」などと言われる。それもわたしへの評価の一般論かもしれない。このごろの人たちは、「俺の背中を見ろ」と言ってもそこからは意図したものを汲み取ってくれるとは限らない。そして言葉で説明したとしても、真意を理解しているとは限らない。「このごろ」というのも適正ではないかもしれない。思い込みしていてはいけないから、確認をとると理解していないと気がつく。かつての自分はそうしたことが解っていなかったのかもしれない。先へ先へと読もうとするから、解ったようなつもりになっていただけ。そこへゆくとこれもまた年老いたせいか、最近は立ち止まることが多くなった。「本当にこれでよいの」と。それが「このごろ」という印象につながっている。会議の中でわたしとやりあった上司は、わたしとは同期である。同期であるという事実も、どこかでわたしを自由な物言いにさせてくれる。見渡せば、みなわたしより後に入社した人ばかりだ。年齢が上の人もたくさんいるのにだ。その通り、みな大学を出てきたのに、そんななかにぽつんと高卒のわたしがいた。そんな入社時代だった。今は退社したが、同じ空間で働いた女性は、こんなことを言った。「大学卒業だろうがなんだろうが負けないと思ってるからね」とわたしのことを評した。実はこれはほめ言葉ではないのだ。その裏を返す戒めのような言葉なのだ。その女性も強い人だった。大学を出て仕事についき、そして結婚もした。しかし、結婚の破綻を期に、いやそれ以前からすでに自らの人生に破綻を感じていたのかもしれないが、どこかさめた見方をしていた。そんな彼女の言葉は、実に奥めいたものがあった。そんな人の言葉から、奥の深さを感じ取りながら、本意を汲み取る、また理解してもらうためにも意図ありげな言葉はよく繰り返し確認をとるべきだと思うようになった。

 やはり席上、かつてのわたしとを対比して「丸くなった」という言葉が出る。これもわたしを評す一般論でもある。今しか知らない若者は、そんな言葉を聞いて唖然とする。「これで丸いの」と。いまだ自らは変わらないと思いながら、実は人を見る目が変化して「丸く」なったと印象を与える。さまざまだと思うし、人はだから生きるのだ、ということを教えてくれる場面だ。サラリーマン時代の有益な効果は、人との接触だと思っている。農業主体時代にはなかったものである。しかし、そうした接触が好まれなくなったら、その効果を自ら捨てたということにもなる。ネット時代へと入り、どこかそうした傾向が見え隠れして、そんな部分が「このごろ」と思わせるまた要因なのかもしれない。
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人間を守ることが第一義

2007-12-04 12:15:35 | 自然から学ぶ
 長野県政タイムス11/25「マルチシンク」は「人間を守ることを第一義に」と述べている。イノシシ、ニホンザル、ニホンジカ、カモシカ、ツキノワグマなどなど野生鳥獣の被害は深刻という。県の算定では16億円の被害ともいうが、マルチシンクの中でも述べられているように、被害が風水害のように一時的なものなら生産への継続はあるが、獣害のようなものは毎回というぐあいに連続するから、生産者の意欲を奪うことになる。ただでさえ高齢者ばかりになった山間地域において、こうした被害は、ますます耕地の荒廃化、そして集落の消滅へ突き進むことになる。

 県はこうした被害への対応として、県野生鳥獣被害対策本部を設置して今後5年以内に、被害集落すべてに対して防除対策・捕獲対策・生息環境対策・ジビエ振興対策を柱とする対策計画を策定するという。マルチシンク筆者は、そうした対策の流れを歓迎し、冒頭の見出しのように「何をおいても、いついかなる時でも人間を守ることを第一義とすることを貫かなければならない」という。共生とか自然保護とか、現代の流れの中でそれを理解できたとしても、人々の暮らしが最優先だというものだ。かならずこうした意見には反論が出るだろう。しかしながら行政という立場で両者を立てていては、現実の暮らしは奪われてしまう。だからこそ「人間重視」という意見を全面に出した意見である。

 人間社会と動物たちとの付き合いは、今に始まったことではない。長い歴史をもっていてそれぞれの関係が成り立っていよう。それでも動物たちが人間と共に生きられなくなったのは、それもまた人間の仕業ではあるが、その背景に対しての研究は立ち遅れたといってもいいのだろうか。いや、動物と人間という関係を推定していくなかで、人間社会の変化、そして環境の変化は早く、また大きかったという証しなのだろう。そして動物たちは人間が自分たちに対して意外に甘いということを知ったのかもしれない。殺すことは簡単でもその簡単なことは最終手段だと認識しているかもしれない。現実的な話として、山と耕作地の境界域では、その被害が著しく、毎日のように獣との戦いとなる。人家があってもやってくる獣たち。なければわがままし放題の状態で、電気柵が有効手段と言われているが、ただでさえ収入の少ない環境にあって、こうした策はその設備費と収入の天秤がけとなる。策が講じられた耕作地とそうでない耕作地には格差が生じ、アンバランスな空間は増殖してゆく。これもまた果てしない日の当たらない戦いである。それは、これほど被害が現実的であっても世論にあがらないほど、限られた空間の問題だということを指し示している。
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コンビニと一銭店

2007-12-03 16:41:17 | ひとから学ぶ
 わたしはコンビニに毎日のようにお世話になるような暮らしはしていない。利用したとしても、せいぜい1週間に1度あるいは2週間に1度というペースである。単身赴任をしていた昨年までの長野暮らしでも、その倍程度といったところだった。ところが世の中のコンビニの繁盛は、衰えるところを知らない。いや、過剰な競争によって業界の中では衰えを認知しているのかもしれないが、利用者側にとっては「衰え」という雰囲気はない。

 先日ニュース番組において、コンビニの経営者がなかなか見つからないという報道をしていた。安定しない業界であることに違いはなく、親子で経営していても次世代に継続できるような店は限られる。マチの店もあれば田舎の一軒屋という店もある。戦後間もない時代にも同じような店が世の中に溢れていたのだろうが、それらも次世代を約束された店ではなかった。マチのあちこちにあった一銭店のような店は、今やほとんど消えた。そうした戦後の店の代わりをしているのがコンビニにあたるのだろうが、そうやって捉えてみると、コンビニはけして悪い店でもなんでもない。かつての一銭店をやっていたおばちゃんの子どもたちが、それを引き継ぐなんていうこともないし、移り変わりの激しいマチの中で一銭店がいつまでも必要ともされなかった。したがってそうした店がなくなるのもあたりまえのこととなるが、大きく捉えてみるとコンビニの存在はそうした店の後継という印象もある。安定しないマチに対して今までにも触れてきて、シャッター通りがどうのこうの、という話しもしたが、果たしてどういうマチが、あるいは店が地域の中のあるべき姿と確実なことはいえない。どれほどコンビニがかつての一銭店の代わりをしたからといって、子どもたちの記憶に残るおばちゃんがコンビニにいたとしても、子どもたちとおばちゃんの関係が一銭店と同じになるかどうかは別である。しかし、いずれにしても、現代のコンビニとかつての一銭店が同じ役割を担ってくれれば楽しい話ではある。

 そんなニュースが記憶に残るうちに、新聞で「セブンイレブンオーナー募集中」という広告が目に入った。「ご家族で取り組める定年の無い仕事」というのが売り文句だ。ターゲットは家族労働であるという雰囲気が読み取れる。記憶に残るニュースも同様の視点で構成されていた。オーナー不足といわれるこの業界の売りは、今や「家族」のようである。であるならば、継続性が求められているわけで、かつての一銭店に近い空間がこの店を中心に醸し出すことが可能だということだ。もちろんそこには、少し融通の利いた店の独自性が許されることが前提ではある。儲け主義であるこの世の中で、衰えを知らないコンビニがどう位置づけられていくのか、まだ歴史は始まったばかりだ。
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ハンカチとトイレ

2007-12-02 10:41:18 | ひとから学ぶ
 「なぜハンカチを使わない」を書いて、たまたまその関連記事をのぞいていたら、「ハンカチを持たない女性たち」という記事を見つけた。男性だから、女性がトイレでどういう行動をとっているかは知らないが、読んでいてなかなか興味深かった。ちょと原文のまま紹介すると、こんな具合だ。

「世の中にはハンカチを持たないでトイレに入る女性が多い。その割合の多さに唖然とする。色んな人が利用する街のトイレで用をたしておきながら、手をささっと水に触れる程度で洗って、水に濡れた手はそのまま頭に。水で髪の毛を落ち着かせてスタイリングしてる。それでいて化粧はしっかりと直すんだよね。整髪料できちんとスタイリングした髪をトイレから出てきた手でまた触って、水で整髪料がべとついた手で化粧。そう考えるとぞっとする。結局は、その手でトイレから出て、外で待たせていた男の人と指を絡めて手をつなぐのだ」

 わたしもそうだが、まじめに手など洗いはしない。人の様子をのぞいていても、水道の水をしばらく流してしっかり洗うようなケースは、トイレに手を洗うために入った人くらいで、用を足した人はおしなべて簡単なものである。紹介した文の「水に触れる程度」という表現から、「なんだ男とたいして変わらないじゃないか」と気がつく。いや、このごろの男性ときたらけっこうまめに洗うものだ。紹介したような女性ばかりだったら、女性観が変わるかもしれない。潤いのある指を眺めて期待を膨らませるような男性の心理を笑っているかもしれない。

 でも実は異性の空間でも認識できないような隔離された部分では、意外な展開がたくさんあるのかもしれない。「まじめな女性」「不真面目な男性」という構図が少なからずかつての時代にはあったが、態度の問題で真実は定かではない。しかし、仕事をしていても、細かいチェックは男性よりも女性に向いていることは確かだ。女性の方がそうした細かいチェックを平然とやってのける。ところが男性の場合は、そうした仕事をしていても、「チェックをして指摘すると嫌われる」などとすぐに考えてしまうものだ。男性社会には今でも年功序列が必要だと思うときはそんな時である。

 さて、生まれ育ってきた体に染み付いた慣れというものは、人それぞれと本当に思うものだ。そして、人それぞれと思わせてくれる空間が、「トイレ」なのだ。冬場になると、みんなトイレが近くなるから、トイレで人に会うことが多くなる。男性だから女性と異なって、いわゆる立ちションである。横の便器に立てば、隣の男性のしぐさが意識しなくとも目に入るものだ。そういう意識をしたくないから、できればすぐ隣には立ちたくないのだ。先日あるトイレで用を足していると、先客が用を足したにもかかわらずしばらく便器に立っている。いわゆる男性は用を足しても紙を使わないから、露を振り落とそうとする。用を足した後のこの所作は、時間も含めて人によって差のあるところだ。せっかちな人はろくに振ることもなくしまい込むし、長々と振り続ける人もいる。もちろんいつまでたっても振っている人は、隣にいて気がつく。だいたいが振り続けるような人は、便器から少し離れてやるから、隣から見ればその所作が良く確認できる。興味あるわけでもないが、そうした光景を目にすると、「嫌なものを見てしまった」と思うものだ。その男性、振りたくったあとにしまい込むかと思えば、何の上から親指に人差し指をかけてはじいているのだ。年のころ50代とは思うが、何を考えてそんなことをするようになったかはしらないが、これではあちこちに露を飛ばしているし、それは自分の衣服にも飛んでいること間違いない。そのくらいなら何もせずしまい込んだほうが、汚れるのは下着のみである。下着なら洗濯は毎日できるが、衣服となると毎日洗濯するというものではない。そんな衣服に我が露を毎回のように飛ばしていても、そんな行為をしていると知らない周りの人は、知らずに接触しているのだろう。冒頭の女性の文末にもあるように、見た目は綺麗、でも実情も知らずに男の人は「指を絡めて手をつなぐ」と同じようなものだ。まさに人それぞれである隠れた世界の話である。
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