Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

コンビニと一銭店

2007-12-03 16:41:17 | ひとから学ぶ
 わたしはコンビニに毎日のようにお世話になるような暮らしはしていない。利用したとしても、せいぜい1週間に1度あるいは2週間に1度というペースである。単身赴任をしていた昨年までの長野暮らしでも、その倍程度といったところだった。ところが世の中のコンビニの繁盛は、衰えるところを知らない。いや、過剰な競争によって業界の中では衰えを認知しているのかもしれないが、利用者側にとっては「衰え」という雰囲気はない。

 先日ニュース番組において、コンビニの経営者がなかなか見つからないという報道をしていた。安定しない業界であることに違いはなく、親子で経営していても次世代に継続できるような店は限られる。マチの店もあれば田舎の一軒屋という店もある。戦後間もない時代にも同じような店が世の中に溢れていたのだろうが、それらも次世代を約束された店ではなかった。マチのあちこちにあった一銭店のような店は、今やほとんど消えた。そうした戦後の店の代わりをしているのがコンビニにあたるのだろうが、そうやって捉えてみると、コンビニはけして悪い店でもなんでもない。かつての一銭店をやっていたおばちゃんの子どもたちが、それを引き継ぐなんていうこともないし、移り変わりの激しいマチの中で一銭店がいつまでも必要ともされなかった。したがってそうした店がなくなるのもあたりまえのこととなるが、大きく捉えてみるとコンビニの存在はそうした店の後継という印象もある。安定しないマチに対して今までにも触れてきて、シャッター通りがどうのこうの、という話しもしたが、果たしてどういうマチが、あるいは店が地域の中のあるべき姿と確実なことはいえない。どれほどコンビニがかつての一銭店の代わりをしたからといって、子どもたちの記憶に残るおばちゃんがコンビニにいたとしても、子どもたちとおばちゃんの関係が一銭店と同じになるかどうかは別である。しかし、いずれにしても、現代のコンビニとかつての一銭店が同じ役割を担ってくれれば楽しい話ではある。

 そんなニュースが記憶に残るうちに、新聞で「セブンイレブンオーナー募集中」という広告が目に入った。「ご家族で取り組める定年の無い仕事」というのが売り文句だ。ターゲットは家族労働であるという雰囲気が読み取れる。記憶に残るニュースも同様の視点で構成されていた。オーナー不足といわれるこの業界の売りは、今や「家族」のようである。であるならば、継続性が求められているわけで、かつての一銭店に近い空間がこの店を中心に醸し出すことが可能だということだ。もちろんそこには、少し融通の利いた店の独自性が許されることが前提ではある。儲け主義であるこの世の中で、衰えを知らないコンビニがどう位置づけられていくのか、まだ歴史は始まったばかりだ。
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