Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

厳しい時代

2007-12-26 12:10:18 | ひとから学ぶ
 東京外環自動車道において、マイクロバスからサッカーチームの少年が車道に落ちてひかれて死亡というニュースが流れた。運転していたサッカーチームのコーチと、後ろから走ってきて少年をひいたトラックの運転手が逮捕された。報道の仕方が正しいのかどうかしらないが、マイクロバスを運転していたコーチに対しての扱いが厳しい印象を受ける。逮捕されるということは事実として受け止めなくてはならないが、犯罪者のような扱いはいかがなものだろう。民放はもちろんだが、某国営放送の報道のニュアンスも、いまひとつ気になるところである。

 世の中にこうした逮捕劇は人事と思っている人は多いかもしれないが、これが現実の現代ともいえる。子どもたちのためにとこうした運動系に限らず団体をバックアップする人たちはたくさんいる。とくに集団スポーツの場合、マイクロバスというのは必要な乗り物となる。その乗り物を運転するのは、おおかたは専門の運転手が運転するわけではない。集団をバックアップする人たちが支えているケースは常態化しているだろう。それだけにそうした人たちの負担はあまりある場合も少なくないはずである。今回のケースがどうあれ、いずれにしても一歩間違えれば、「よきに」と思ってやっていたことが自らの人生を狂わす可能性は大きい。そんな時代への変化なのだろう、地方においては車社会は当然な社会なのだが、昔に比較すれば他人の車に安易に乗せてもらわない、という意識がかなり浸透してきている。それはわたしが子どものころと、現在の大きな意識変化ともいえる。もちろん、わたしの子どものころと、現在とでは車の依存度に大きな差があるし、そうした車社会への変化の中で形成されてきた意識、という説明もできるたろうが、それにしてもその時代にこうした地方の車事情とともに暮らしてきたわたしには、少し違和感のようなものを持っていた。ようは、確かに事故の起きた際の責任問題は、それぞれの関係に後々まで続く可能性があって、そんな可能性があるのなら、「よきに」と思って安易に人を乗せないという安全装置を自らの中に持ち続けることは必要だろう。しかし、地方は車なくしては生活はあり得ない、という意識との狭間の中で、そうした安全装置を持ちえることで地方社会は成立するのだろうか、という問いをしてきたわけである。

 昔だったらどうなのだろう、などと記憶をたどっても定かな報道の記憶もなければ、こうしたケースの対応の仕方もよみがえらない。自動車事故に対する世論が厳しくなったことは、道交法の改正ごとの状況をみても確かなのだが、その責任の所在として問われるのは致し方ないとしても、そもそもこうした背景の上にさまざまな活動が支えられているという事実を、たとえばどれほどの子を持つ親が認識しているのだろうか。

 さて、ここまで少年を乗せていた運転手のことについて触れてきたが、斜め後ろを走っていて落ちた少年を引いたトラックの運転手も、なかなか厳しいものである。このごろはアクシデントで突然ひいてしまっても「逮捕」という厳しい口調の報道がよく聞こえる。こうした厳しさを前面に出して、認識させようという意図があるのかしらないが、それぞれの逮捕後については知る由もない。人ごとではすまない、現代の厳しさがさまざまなところに見えてくる、そんな事故であった。
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