Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

飯田線よもやま話①

2007-12-13 12:11:45 | 歴史から学ぶ
 昭和52年のいつごろのものかは記録していないのだが、信濃毎日新聞において、「飯田線よもやま話」という7回の連載記事があった。このときの記事の切り取りが、なぜかそろってふたつ残されている。自家でその新聞を購読していたが、2部もとっていたわけではない。よほど興味があったとみえて、よその家の新聞を手に入れてきて保存したのだろう。そのふたつ用意したことの意図は思いだせないが、当時、盛んに新聞の気になる記事をスクラップしていたことから、1度スクラップした後に、再度どこかで同じ新聞をまとめて手に入れた際に、一度スクラップをしていたことを忘れていて、再び切り取ったのかもしれない。

 いずれにしてもこの記事、当時は気に入っていた記事であることに違いはない。昭和52年といえば、盛んに電車通学をしていた時代である。けして電車に興味を持っていたわけではないが、この記事はそれまで意識していなかったことを教えてくれた。

 第1回に登場するクモハ52は、その記事から1年以内に廃車された。まだ国鉄時代の話である。流線型のこの車両、そうはいってもめったに飯田線を走っていなかった。1日に一度程度ということだったようだから当たり前で、その気になって乗る気でもなければお目にかかることもない。記事を読んでから、意識していて何度か拝見したことはあるが、乗車したことがあったかは記憶にない。この車両、戦前の車両だったということで、新幹線のモデルにもなったという。動く博物館的なイメージの当時の飯田線だったのである。クモハ52も当然そうだが、当時の座席は木枠で作られていた。なかなかレトロなイメージだが、お払い箱の吹き溜まりみたいにも言われて、マニアにはともかく、日常の利用者には評判は良くなかったかもしれない。

 「飯田線を走った車両達」にその車両の写真が掲載されている。さすがにマニアが多いだけに、そのほかのページでもたくさんの写真を拝見できる。

 そういえば当時は飯田線の複線化などという要望もあった。高速化を図るには手っ取り早い手段であるが、赤字の国鉄にそんなことができるわけでもなく、今思うと、当時の要求とは現実的でないというか、実現性のまったくないことを要求していた事例が多い。そんな時代から今の時代を予想していたら、その地域は違っていたことだろう。第1回の冒頭で、スピードアップを図るために、飯田線特有のカーブの解消が求められてきたが、それは「財政的にも技術的にも難しいことがはっきりした今・・・」という問いかけで始まっている。この記事の数年後に、中央東線は岡谷と塩尻を結ぶ塩嶺トンネルが開通し、飯田線はますます遠い存在へと追いやられていくことになる。
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