Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

現代における「ものをくれる」

2007-12-19 12:31:24 | ひとから学ぶ
 「よそ者のみた駒ヶ根の暮らしⅣ」のなかで、「野菜はくれても米はくれない」ということに触れた。農家が野菜や果物を隣近所にくれることはあっても、米をくれることはあまりないという事実に触れたもので、米に対しての特別な思いがあるのではないか、と駒ヶ根で暮らした都会びとは述べていた。その意見は確かによそ者にはそう受け取ることができるかもしれないが、よく考えてみると、別の視点もあると気がついた。

 妻の友人に専業農家が何人かいる。すべてではないが、農業で都会のサラリーマン並みに稼ぐとなると、大規模農家か高付加価値の商品を生産している農家に限られてくる。またそこに近づこうとしている小規模の農家もいるだろうし、農家ごと多様であることに違いはない。この季節になると、自宅の周辺が果樹園ということもあるし、リンゴを生産している親戚もあったり、そして妻の友人がいたりと、リンゴをもらうことが多い。そんななか、どういうリンゴを「人にくれる」かはそれぞれの意識の違いでもある。もともとは土地がなかった人で、苦労して農地を増やし財を成したような農家は、人に「ものをくれる」といっても商品価値のあるものをそうやすやすとは選ばない。ところが人のよさそうな農家では、「それでも」といって市場に出荷するような商品を選択したりする。確かに農家ごと商品に差があることは当たり前なのだが、そうはいっても歴然とするほどの違いがあるはずもないのに、いただいたモノには大きく差が出る。

 このあたりをもう少し精査してみると、その家にサラリーマンがいるかいないかによっても異なってくる。確実に農家として生を立てると意識している専業農家においては、やはり商品価値の高いものをただで「人にくれる」などということはしのびないはずだ。それでも「親しければ」また違うケースもあるが、生産者意識によっては、親しくともそう簡単にはくれるわけにはいかないと考える農家も多い。ということで、人にものをただてくれてやれば、収入が減るわけで、商品にならないものなら「人にくれてやる」ことができるのだ。この意識を前述の米の話しに合わせてみると、稲作が中心だったというかつての米神話もあるが、米はそれほど商品のばらつきが出ず、基本的にはすべて出荷可能だった。果樹や野菜のように見た目の傷がはっきりするものではない。一粒で商品として売れるものでもなく、野菜や果樹とは商品としての形が異なる。ようは商品として出荷できるものは「人にくれる」というわけにはいかなかったのだ。

 ではなぜ、「人にくれる」という行為が昔も今も続けられているかということになる。やはり副産物的なモノに対して、思い入れが低下することは否めない。それでも複合的な商品を生産している専業農家において、米以外のものでも人にくれる」という行為は簡単にするべきではないと思っている人はいるはずである。ようは商品として出荷する予定のないモノは、「人にくれる」対象となるのである。

 さて、さきほど「サラリーマンがいるかいないか」によって異なると述べた。農家の農外所得率が高くなるほどに、生産物に対する思いいれは低下するということにちなむ。最近のようにほとんどがサラリーマンになってしまった農村地帯において、「人にくれる」という意識、そしてどういう品質のものを選択するかはさまざまだろう。いずれにしても、家で消費できないからとただで人にくれてやっては、そうした商品で生計を立てている人たちにとっては迷惑な話である。考えてみればただの物と、そうでないいものが市場に出回っていたら、ただの物の方がよいに決まっているわけだ。このごろは同じような比較がさまざまなところでできる。人に頼まずに自らモノを作るというのならまだしも、人に頼まなくてはならないことで、ただでやってくれる人がいれば、それこそその方が良いに決まっている。そのへんを行政側が履き違えないことを望むが、このごろの行政にはそんな場面が見受けられる。かつての「モノをくれる」と今の「モノをくれる」はどこか違うと思うのだがどうだろう。
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