Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

中央新幹線建設報道にみる

2007-12-30 08:47:20 | つぶやき
 しばらく前からJR東海が2025年に営業運転を目標にリニア中央新幹線を建設するという報道がちらほらしていて、それに向けた調査も始めたというニュースもその直後に小さく報道されていた。その際にわたしが感じたのは、新幹線ルートは直線ルートで建設される可能性が高いというものであった。その際の関連記事をストックしていずれ触れようと思っていたら、先日のJR東海の「自己負担による整備」方針である。実は2025年建設意向が表明されたときよりも、長野県内の報道記事は大きい。中日新聞の長野版には「別ルートにとまどいの声」と白抜きの大きな見出しが登場した。まるで一面トップ並みの扱いである。なぜかといえば、長野県内では山梨から諏訪を通過して伊那飯田と南下して中京圏へ入るルートを推進していて、流れとしてはそのルートの可能性大とふんでいたのだろう。ところが今回のJR東海の考えは、自己資金で建設して早期に営業を始めてかかった費用を早く回収するというものである。したがってとりあえず東京―名古屋間を結ぶことが優先であって、途中の地域のことなどどうでもよいわけである。

 「どうでもいい」というのは言い回しが悪いかもしれないが、素直に考えればごく当たり前のことという印象がある。途中の地域といっても平らな部分があるのは山梨くらいで、あとはわずかな空間を山あいに持つだけで、スピードを売り物にするのなら駅などないほうがよい。たとえ長野県内の自治体が要望していたルートが実現したとしても、そのスピードから想定すれば、駅は一つといったところだろう。そんな思惑通りにことは進まないし、その程度しか人も住んでいない。このことは、建設が遅れるほどに目立ってくる課題だったと思っている。そこへきて、このごろの東京集中化である。地方の時代などという言葉は消え、大都市への集中化は、人口が減少してゆけばさらに加速するだろう。コンパクトシティーという考えが流行るが、おなじことをもう少し広い範囲で考えれば、コンパクトな国づくりということになる。東京圏内への集中というものは、災害というリスクをのぞけば、けして悪いことではない。そして健康な高齢者が田舎に住みたいというのなら、そういうエリアを設けておけばよい。分割されているJRという環境から考えれば、営業区間でいかなる設備投資をしていけばよいか、ということになる。東海がその最たる必要性を感じているのが、東京との時間短縮といえるだろう。巨額な建設費、そしてその負担をどう賄っていくか不安は残るが、意図はわかりやすい。そんな解りやすさから考えれば、最短ルートは当たり前だし、「駅の建設費は地元で負担してもらう」という考えもよくわかるものである。反発したところで、この地域の利用者は勘定できるわけで、時代背景とともに冷静に考えれば、もしかしたら駅一つも建設できないかもしれない。

 そんななか、ひとり歓迎イメージを持っている飯田地域。まさに地域性に視点をおいてきているわたしの思うつぼのような関係である。果たして歓迎イメージを持っていても、建設費は捻出できるのか、そんな印象もある。ルート認識の違いによって、こんな狭い地域なのに諏訪・伊那といった地域からまたまた無視される可能性もある。

 さて、2025年といえば、18年後である。健康であればわたしはまだ生きている。生きている間には絶対あり得ないと感じていた中央新幹線が、果たしていかなる姿で登場するのか、そして今利用している飯田線がどんな変化を遂げているのか、ますますこの地域が奈落の底に陥っている、などという印象ももちながら、行方を見守っていきたい。
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