Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

老い支度、死に支度

2007-12-11 12:11:33 | ひとから学ぶ
 12/8付信濃毎日新聞の「人生80年時代老い支度、死に支度」を読んでいて、またまた死へのアプローチの仕方を考えることとなった。わが家でもどちらが死んでも葬儀は密葬という考えだ。オープンに葬儀はしない、したくないという考えは、それぞれがとくに業績を残しているわけでもないし、会社に沈んでいた人間は、毎日が会社との行き来、そして長男でもなかったから、そんな毎日では自らの地域らしきものも実感としてはない。ようは知人もいなければ友人も縁遠い。会社に沈んでいた今の実感としては、会社の人たちにおくられるほど、わが身が寂しくあってほしくない、というどちらかというと偏見のようなものもあるのだろう。だから今だからそう思うだけで、年老いてきたらその考えは変わるのかもしれない。

 しかし、いずれにせよ、お互いがそう思っている以上、この考えはそう簡単には曲がらないだろう。妻にいたっては農業を実家で営んでいるのだから、それこそ付き合いに変化がない。そう思わざるを得ないほど交流が少ないということなのだろう。必ずしもそれを悲観することでもないが、この現代においてはそうした現実が負力を持つこともあり得る。まだわたしのように、外部と接触している人間は〝まし〟な方ということになるだろう。だからこそ、より強く妻は葬儀を行わない、にこだわる。

 新聞ではまさに老い支度と死に支度という始点で書かれている。「子どもはわたしの付き合いがわからない」、だから死んでも自分の葬儀はしないように、という安曇野市の女性は、来年生前葬を行うという。今まで出会った人にお礼を言いたいのだという。好きな野の花を飾り、1人1人にメッセージカードを贈る。地元の歌手のコンサートを開くともいう。このごろは普通の葬儀でも、結婚式のパンフレットのように生涯を紹介したものを入れたりする。葬儀そのものもイベント化している雰囲気もあるが、イベントだと思えば生前葬のような葬儀もありえる。もっといえば、いきなりやってくる最期よりは、あらかじめ予定された日に、そして生前にお別れが言えるというのなら、これほど願ったものはない。世の中の人から「長生き」と思われるようになれば、そんな葬儀があってもよい。現代のように親子が同居していないともなれば、子どもたちに親の付き合いはまったくわからない」となれば、葬儀に見ず知らずの人がやってきても、子どもたちには何も対応ができない。現代の人間関係には生前葬こそ整合していると思える。

 記事ではもうひとつの視点に触れている。墓地のことである。これもまたわが家ではお互い「骨はいらないよね」というほどに墓地の必要性を感じていない。大阪から生坂村に移り住んだ夫婦は、大阪に戻るつもりがないからといって、先祖の墓も含めて、松本市新宮寺に納骨の場を求めた。昔なら家ごとの墓があったが、家というものがこれほど崩壊してくると、墓はあっても誰も面倒をみてくれない、なんていうことはどこでも出てくるだろうし、すでにそうなっているだろう。それを解消するには、共同墓地ではなく、共同の墓碑ということになる。新宮寺にある夢幻塔には約250人が供養されているという。生坂村の夫婦が言うように、「(ここなら)みんなおるから、にぎやかでええわ」は合理的なあの世への扉かもしれない。

 どちらの視点も、わたしには〝ぐっ〟とくる死に支度である。

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