Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

駄目な人はひとりもいない

2007-12-31 19:18:44 | ひとから学ぶ
 仕事納めの日、部署のトップは「将来の道をそれぞれが選択しなくてはならないところにきているから、自分にあった良い道を探してほしい」(詳細な部分は違うかもしれないがおおよそこんなところ)などという言葉を発した。確かにそれが現実なのだが、出先のトップがこんな言葉を出さざるを得ないという背景が、とても疲弊している世界を象徴している。

 真宗大谷派の善勝寺報「慈窓」12月号において、「駄目な人はひとりもいない」といって教えている。歳を重ねるほどに一年の過ぎるのは早くなり、子どものころのような見るもの、聞くもの、すべてが新鮮だったという感動がなくなる。そして「何もおもしろいことがない」「毎日がつまらない」などという言葉が出るようになると危険信号だという。このごろは若い人でもそんな具合で、常識では考えられない親殺しや子殺しが起きるともいう。そしてこんなことが書かれている。


 蓮如さまは「仏法には無我、われと思うことは、いささかあるまじきことなり。われはわろしと思う人なし。」(南無阿弥陀仏の世界は、無我の世界、俺を馬鹿にするとか、私を無視するとか思って腹を立てるということは、あってはならない。それなのに世の中の人は、私が悪いのだと誰も思わない。)『蓮如上人御一代記聞書』と教えられている。近頃はみんな偉い人になり「私は絶対に正しい。他の人は間違っている」という秤にまわりの人をかけて、相手を攻撃する。そり結果、取り返しのつかない事態に追い込まれる。どんなことでも真剣に取り組めば、「こんな素晴らしいことだったのか」と、感動する世界が見えてくる。


というものである。このところ墓を、そして死後の支度を考えてきた。まるで現代の若者のように信心などおかまいなしみたいに語ってきたが、実は寺のこうした印刷物を読むのが嫌いではない。檀家でもないのに、もう20年ほどこの寺の毎月の記事を読んでいる。仏の教えに信心はないし、この寺の考え方に同調しているわけではないが、言っていることはわたしをとても納得させてくれる。表向きのことで裏のことは解らないが、宗教とはそんなものなのかもしれない。ここでも触れられているように、いかにさまざままなことを人のせいにせず、自らを戒めることができるかである。ところがこの1年の我が家は、なかなかそんな教えのような具合には行かなかった。言ってもまったくこちらの意図通りに動かないと、こっちがいらいらしてくる。それを繰り返す半年。けしてダメには育てた覚えがなかった息子は、今や手に負えないほどに母の心を痛める。自分の好きなことをすればいい、自らの人生なんだから、と父が母を諭しても、「そんなはずじゃなかった」と母は落ち込む。仕事に追われて、わたしは仕事へ、息子は別の次元へ、母はどこにも逃げられずにひたすら耐えている。そんな連続である。これからも何度も触れることになるだろうだろうことで、今までにも何度か触れてきたことであるが、子どもたちが親の面倒を見なくなったという事実は、この世の中を、いや地方を大きく変えた。もちろん昔だって自分の力を存分に発揮するために親元を離れる人はたくさんいたわけであるが、そのあたりが少子化と大きくかかわってくる。ただでさえ子ども少なくなったのに、その子どもたちは能力を発揮することが勝ち組だとごとく、旅だつことが当たり前となった。今や地方において親子同居は稀なケースといってもいいくらいになりつつある。その考えは、ここ20年ほどの間にさらに加速してきて、とまるところを知らない。確かに子どものためにと思えば、出来うるかぎりのことをしてあげたいと思うのは解るが、だからといって子は親の身の代ではない。そんな葛藤があるのは解っている。そんななかでの親子の難しい関係である。よその親子が仲良くしていると羨ましく思えてくるが、やはりよそを見てくらべてはいけない。いかに自分たちはどうその課題を解決していくか、それを悩むことが許されているのだ。許されないほどに苦境に立っている人たちだっている。まずは自ら考えてみる、そう息子にも諭すが、さすがにまだ若い、理解はできない。そんな苦労をすることで、たとえ落ちこぼれようと、その中で自らを探すしかない、そうわたしは思う。

 さて、わが家と同じように会社も下降する。それを象徴したような部署のトップの言葉。運不運はあるものの、自ら考えるしかない、それを公私共にぶつけられたこの1年であった。
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