Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

死に支度を考える③

2007-12-20 12:43:45 | 民俗学
③問う、墓の必要性

 口で言っていることと現実のこととは、実際その場に遭遇してみればうまくはいかないだろう。それは自らも認識している。とくに肉親の死に遭遇したともなると、慌てる部分もたくさんあるはずだ。そういう意味では、自ら葬儀に対していろいろ考えている以上、さまざまなパターンを想定しておかないといけないだろう。もちろん、それを現実的に「遺言」として残す必要性も感じている。妻とふたりで「それでいいよね」などと簡単に口約束したからといって、親族もいるのだから、際どい状況下で生前に思っていたことを実践することはできないだろう。だからこそ、考えたことを実践できるような基本的なことは、記録して残しておくことが必要だろう。そんなことを生きているうちに考えるのも、「どうなんだろう」などと自問自答する。子どものいない家にとって、自らが死すということはどういことだろう。誰かが埋葬してくれるだろうが、きっとそんな人たちにとっては死すことはとてもつらいことのように思うのだが、わたしには解らない。

 『葬儀と墓の現在』において「葬儀の行方」を著した福澤昭司氏は、この1年に自ら関わった実父と義父の葬儀を経験して「父の葬儀のことども」の中で感想を述べている。「石塔の建立について、死後の供養の永続性が保証されない現代社会にはそぐわないとの理由で疑問を呈した。客観的に考えればこの考えは間違っていないと思うが、今回は当事者として現実的な問題に立ち会って、気持ちが揺れているのも事実である」という。現実的に遺骨となったものを土に返して無にしてしまうには、故人が消えてしまうようで忍びないという。たまたま墓地を用意してあって墓石もあるから、遺骨はそこへ納めることができる。その墓石は父が用意したもので、いざとなって感謝しているという。この気持ちは、わたしが現実的にその場に遭遇したら、生前の考えなど飛んでしまうとういうことを証明するようなものである。だからこそ、自らの死後の支度をしておかなければ、などと考える。前回に触れた藤井正雄氏の言葉でいうなら「厳粛ないのちの引継ぎがない」から葬儀を演出することになる。なぜそれが演出になってしまうのか、そのあたりの感覚は人によっては納得いかない意見だろう。演出ではなく自らのことは自らでするという「優しさ」と捉える人もいるだろう。しかし、「家を継ぐ」という意識を自ら望まないことを主張しているようなもので、しいては地域社会への貢献度も無くすことになる。このあたりも異論は多いが、すでに地域社会と言っているわたしの指す空間は、地方においても空間割合は多いが、人口割合でみれば、極度に限られた部分に過ぎなくなっている。地方の市部を中心に地域は流動するものという現実が常態化し、流動化してもそこに住む人たちが考えること、継続していくものということになる。あきらかに親が子にという家の継続性は重視されない。この感覚は、まさに死に支度の意識から始まっているのかもしれない。あるいはその逆で、死に支度をせざるを得ないという環境を引き起こしている。そういう意味では、わたしもまた地域をさまざまに斬るが、つまるところ地方を見捨てた人間といえるのかもしれない。ただ、このことはわたしの家における親子関係について触れなくてはならないが、このことはまたあらためて触れたい。いずれにしても社会構造の変化、そして意識の変化をみるにつけ、すでにかつての社会を回顧して参考にしたとしても、あくまでも参考程度で、あまり意味がない状況にあるのではないかなどと考えるこのごろである。

 さて、本項で掲げておかなくてはならないわたしの死に支度、それは福澤氏が考えていたような墓石の必要性というものだ。死後の供養が継続されないとなれば、やはりモノを残す必要はなくなる。そういう意味でも「老い支度、死に支度」で触れたような共同の墓碑という考えはひとつの方法なのだろう。
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