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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

草刈ほど無駄な出費はない

2007-06-15 08:27:25 | 農村環境
 先ごろの土日、雨の合間をぬって田んぼの草刈をした。田植え後の畦にもう草が伸びている。1ヶ月もすると草は伸び放題で草刈をしなくてはならない。1年に何回するのだろうと数えると、田んぼの畦周りは6回くらいはする。大きな土手で畦からは離れたような場所は2回とか3回程度だが、本当なら同じくらいしなくてはならないが、土手が大きいうえに急勾配ということで、なるべく刈らない。人に迷惑になるのなら仕方ないが、耕作していない耕地に隣接しているようなところは、少し伸びすぎてもそのままにする。奥にあるような耕作放棄している田んぼは、1年に一度も刈らない。だから山のような状態である。

 草刈と簡単に言うが、草刈にもお金がかかる。手間は抜きにしたとしても、草刈機の燃料代と替え刃代がかかる。実はあまり意識していないが、燃料費は大きい。自家の農業ではなく、手伝っている程度だから計算したこともなかったが、肩掛け式の草刈機の燃料タンクは平均的に0.5リットルである。満タンにして刈れる面積は、草の種類や丈によっても異なってくるが、田植え後の少し伸びた今回のような草でも、畦の長さで50メートルも刈ると燃料は終わる。もちろん畦の上だけではなく、傾斜地だからその下の法面も付属してのことである。面積にして100平方メートル程度だろうか。それも整備されて面が平らな畦畔ならよいが、凸凹していると空回転ばかりして草を刈るのに時間がかかる。ようは無駄に燃料を消費していることになる。そして燃料代であるが、混合といわれる燃料、実はけっこう高い。長野県内で今やもっともガソリン代が高いといわれる下伊那地域で、この混合が先日リッター188円した(ホームセンターなんかでは1リットル300円近い)。ハイオクより遥かに高い。0.5リットルで100平方メートルだから、94円かかっている。1年に5回刈れば564円となる。平地で畦の比率が低いところならともかく、ひどいときは5割近くが畦だったら大変なことだ。おそらく、妻の実家の場合、常に草刈をするスペースは500平方メートル以上ある。加えてたまに刈る場所やため池への道などを含めるとかなりの面積となる。「なんだたかが5000円程度じゃないの」と思うかもしれないが、実際はもっと使っているような気がするし、替え刃はピンからきりまであるが、そうは言っても安ければ寿命は短く、高いものは2000円ほどして、加えて山間の畦畔ともなれば石があったりして磨耗は激しい。生産的な作業ならよいが、すべてが無駄な除雪費のようなものだ。平地なら草刈面積は少ないが、山間地に行けば行くほどに嵩んでくるという図式はまさに雪国とそうではない空間の違いそのものだ。
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いらいら運転

2007-06-14 08:27:23 | つぶやき
 久しぶりに車で通勤する。なぜかといえば、午前7時に会社に行くためだ。会社に入るのに面倒だから、直接現場に行けるように準備しておいて、駐車場から直行である。もちろん電車で行けないわけじゃないが、5時代の始発に乗らなくてはならない。そこへいけば6時代でよいはずだ。時間帯として、いつもより1時間早いのだから、車を利用すれば、6時半近くに出発しても目標の7時には到着すると考えたのだが、それが甘かった。

 自宅を出てすぐ、大きな道に出ると、後ろからライトバンが接近してくる。わたしも60キロくらい出しているのに、「早く行け」といわんばかりの接近である。そんなやつがうしろにつくとすぐに頭に来てスピードを出すタイプなのだが、歳をとってきたから、そんなやつにはおかまいなしで走る。6時代だから空いていると思いきや、そんなライトバンに煽られたせいでもないが、すぐに前を行く車のお尻についた。「遅いなー」と思うと、前の方に大型車を牽引した車が走っている。故障した車を引っ張っているのだが、大きな車を牽引しているから遅い。けっこう車がつながっている。しかし、通勤時間帯にはいろうかという時間だから、後ろの車の姿をみると、煽りたくて仕方ない雰囲気だ。「せっかく早く出たのにこれじゃーいつもと同じじゃないか」とわたしはうんざり。7時までを想定していたが、これでは10分くらいは遅くなりそうだ。まったく1時間後と変わらないではないか。

 先ほどのライトバンは消え、今度は女性が運転した車が後ろについて、やはりけっこう接近している。このごろはそんな女性ドライバーも珍しくない。しばらく進むと右折車がいて左側は狭い。その隙間を縫って進むが、その際すでに信号機は赤になりそうだった。そのままわたしは進んだが、後方はなぜかそのとき少し開いていた。後続車はおそらく信号で止まるだろうと思っていたら、赤なのに突っ込んできた。接近する車を信号機で追い払うのは良い気分なのだが、逆に止まらずついて来られると「かんべんしろよ」と思うのは常だ。大型の牽引車は、まだ前を走っている。これでは目的地近くまでランデブーという感じなので、あきらめて違う道にルートをとった。なぜ早朝からこうも気を使う運転をしなければならないのか、と思うと、やはり「電車に限る」と悟るわけだ。結局1時間後なら55分のところを45分ほどで着いたから、10分近く早かっただけだ。たった10分でもいらいらしなければ納得なのだが、いらいらしたから納得いかない。夜帰宅する際には、35分程度で帰宅した。よくもみんないらいらもせず毎日通勤しているものだ、と感心することしきりだ。
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29年前の中条村から

2007-06-13 08:27:07 | 歴史から学ぶ
 昭和53年に村の人口が四半世紀で三分の二になったというから約6千人の人口が4千人程度になったということだろう。これは上水内郡中条村の昭和53年の姿である。現在の中条村のホームページに昭和53年の人口は表示されていないが、推定するに約4千人というところだ。そして、現在は3千人を切っている。高齢化率が高い自治体というと、必ず下伊那郡の村々が浮かぶが、長野市近辺では特別目立っている中城村で下伊那郡の村々に高齢化率ではひけをとらない。長野市から車で20分程度だというのに、若者が居つかないのだ。

 ここに昭和53年11月26日の信濃毎日新聞朝刊にあった特集「ふるさと今」の記事がある。長野県内の市町村をひとつずつ毎回特集している記事で、当時は少し興味があると切り抜いてはスクラップをしていた。以前にも書いたが、なにしろガラクタ好きだったから、なんでも集めた。そんなスクラップもたくさんになりすぎて、かなり廃棄したのだが、この特集記事はスクラップからはがして、束ねて棚に積まれていた。懐かしく黄ばんだ切れ端をめくると、中条村が登場したのだ。この春まで盛んに通った中条村だから、ことさら目に留まる。「ふるさと今」では、長野市に20分程度のところにありながら、通勤する時間帯には1時間20分と1時間もよけいにかかってしまい、それが人々を苦しめていると記述されている。電車でも走っていればよいが、バスともなれば同じ道路を通るから遅れる。それを回避するためにはあらかじめ早く家を出るか、あるいは長野に住む以外にはない。村内に働く場がなければそれも仕方のないことだったのだろう。

 わたしも自宅から長野へ向かう月曜日に、通勤時間帯に国道19号を利用して長野市に入っていた時期があった。しかし、この昭和53年ほどの渋滞はもう起きない。それはオリンピックによる白馬と長野を結ぶ道路ができたことによってかなり解消されたと思われる。しかし、人々が村を出る現象が止まったとはいえないだろう。「車は通らないが人は多い」で触れたように、平日の村の姿を見る限り老人しか姿をみない。「村に住まない村の職員」で触れた長野市近郊の村は、この村のことだ。もしかしたら、長野市からこの村に通勤するには、快適に20分程度で来られるのかもしれない。皮肉な話しだ。「ふるさと今」の中で、中条高校を卒業して長野市に出た美容師さん2人の話が取り上げられている。当初は村に帰って暮らしたいと思っていたものの、今では村には暮らさないだろう、と考えている。そして、弟や妹たちは、中条高校へ進まず、長野市内へ出たいといっているという。まだまだ当時は村にあった高校に進学する人たちが多かったのだろうが、今や、希望者が少なく、統合致し方なしという状況だ。そんな村の人たちの声を取り上げている記事であるが、驚いたことに、ついこの3月まで仕事でお世話になっていた方の名前がそこに見えた。当時中条高校に通って野球部にいたYさんだ。彼は今も村にとどまって仕事をしている。さまざまな若者が、さまざまに思いをもってその後の約30年を過ごしていることだろう。記事に取り上げられている大きな写真は、東京の石油開発会社がボーリングを昼夜問わずに行なっているものだ。「出てくるのは石油か、天然ガスか。昼夜を分かたない試掘作業を、村民は熱いまなざしで見守っている。それは、地中に埋まる「中条のあす」を掘り起こすのに似ているからだろう。」と記事は締めくくっている。仕事でそんな試掘された後の土地を訪れたことがあった。もちろんそこからは何も発展はなく、その恩恵は何も残っていない。記事の3分の1を占めるような写真は、いかに村がこの試掘に期待していたかが解る。

 最後に、この村の多くの人々は、長野市への合併は致し方ないと踏んでいる。いや、早く合併をしてほしいという声も多い。しかし、この高齢化率の高い村は、長野市に紛れ込んだ途端に、高齢化率が表に出なくなる。おそらく同じような道を歩んだ旧大岡村や鬼無里村のその後をみるにつけ、まぎれるとともにその地域の課題が見えなくなることも事実だ。
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人のいない駅前通り

2007-06-12 05:48:56 | つぶやき


 飯田市丘の上は旧市街だ。いや、「旧」なんて言ってはいけない。本来の市街地である。この日曜日に中央通3丁目の信号機の近くで人を待っていてしばらく停車していた。街中ではあるが、道が広く、通行量も少ないから、路上駐車していても目立たないし、問題はない。しばらく停車して目の前にある交差点を眺めていた。朝方は雨が降っていたが、午後は晴れ間も見えてきてそこそこ人通りがあってもよい雰囲気だ。この交差点は、JR飯田駅からすぐの交差点で、昔ならひっきりなしに人通りがあったところ。ところが、観察していたが、ほとんど人が横切らない。こちらの信号が赤になると、飯田駅前からまっすぐ下ってきた人か、あるいは逆に飯田駅の方へ向かう人が渡っていくはずなのだが、人通りがちらほらなのだ。こちら側が赤になって次の青になる間、誰も渡らないことも珍しくないのだ。

 最近まで、この交差点から数10メートル駅に寄った場所に平安堂飯田駅前店があった。最近は訪れたこともなかったが、かつてはかなりの専門的な本まで置いてあって、ちょっとマイナーな本を探しているとたまに訪れていた。大昔といってよいのか、20年ほど前にはこの平安堂はいつも賑やかにお客さんがいた。もちろんそのころには、この交差点を行き交う人も多かった。さらに30年前ともなれば、この交差点を逆に下ったところにデパートがあって、この一帯は飯田市でももっとも賑やかな場所と言っても間違いなかった。それが日曜日だというのにこのありさまなのだ。このごろは、銀座通り沿いに再開発ビルができて、少し丘の上に活気が戻ってきたみたいに言われているが、飯田駅前から下る中央通は、悲惨な限りだ。あまりに人通りが少なく、加えて車の行き交うのも少ないため、信号待ちしていた年寄りが、信号を無視して渡っていった。車も人も来ないのだから渡りたくなるのも当然かもしれない。これほど空いていると、へたに信号機に合わせて横断歩道を渡ると、信号が変わった途単に発信する車に跳ねられかねない。とくに右折や左折する車がいると、ひやひやする。中央通りから銀座通りにかけて、アーケードがしばらく前に取り除かれ、空間的には広さを感じるようになったが、皮肉にも空間が広くなったら、ますます車にしても人にしても影が減った。昔のようなごみごみした空間が、私は好きだっのだが・・・。
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風呂の湯

2007-06-11 08:29:04 | ひとから学ぶ
 銭湯や温泉に入ると気持ちよい、と思う一つの理由に、きままにお湯が使えるということがあるだろう。とくに掛け流しの温泉ともなると、常に新鮮な湯が湧いているという印象は、特段に気持ちよさを与える。それはそれで温泉のよさなのだろう。もちろん水も同じで、循環している水だったり、再利用されている水だったらきっと気持ちよく利用できなくなってしまう。その先でどういう環境があろうとも、山の中の沢水の流れを見ていると新鮮さや清らかさを覚えるのと同じだ。ところが、入浴という行為のなかで、常にそんな水にありついていたら、この世のなか水の使い捨てになってしまう。

 自宅の風呂に入っていると、妻は盛んに「風呂の湯を洗い湯に使うように」という。さすがに経済観念が高いからそういう発想になる。男と女の違いとはそういうところだと昔から思っていたが、今やそういう対比ができるかどうかは疑問になってきている。それはさておき、あまり経済観念のないわたしは、体を洗うときにはシャワーを使ってしまう。洗う湯だから、そのまま排水溝へ流れていってしまう。考えて見れば新しい湯を捨てて、風呂の中の古い湯をそのまま他の人が利用するというのも「もったいない」というか、不合理だといえるだろう。シャワーという機能がこの世に登場したおかげで、水の利用量が増えたに違いない。それよりも毎日風呂に入るのだからそれだけで大きく違う。子どものころ、眠たくなるとそのまま寝てしまうということは週に何度もあった。だからといって臭いと気にしたこともなかったし、匂いの記憶というものは残らないということに気がつく。毎日風呂を沸かすということはなかったし、もっといえば昔は家に内湯というものがないのはごく普通のことだった。風呂という空間が一般の農家の中に登場してきたのは、それほど古いことではない。香水だって嫌な匂いを消すためにあったもので、無臭の世界に無理に臭気を漂わせる理由はないと思うのだが、そうした意識は変化してしまっている。

 さて「環境にやさしい」というはやり言葉に合わせるなら、風呂に毎日入らない、あるいは入っても湯をなるべく交換しない、というような方法が浮かんでくる。前述したように、かつては毎日風呂に入るという常識はなかった。しかし、いつのころからか毎日入るのが当たり前になったが、果たしてそれはわが家のことで、よその家も常識かどうかは解らない。①風呂を沸かす頻度、②湯を交換する頻度、それらは果たしてどれほど家ごと違い、なぜそうするのか、気になるところだ。もちろん家族の人数によっても異なるだろう。温泉などを利用しても、洗い場で自由に湯が使えるとありがたい。時に蛇口を1回押すと、一定量出て止まるというものがある。そんな時「面倒くさい」と思い、そんな温泉は「ケチだ」なんて言われかねないが、逆の視点でみるなら、水を大事に使用することを心がけているということになる。その背景には、節水することで経費を節減したいというものがあるだろうが、そのおかげで無駄な水を使っていないということにもなる。おそらく自由に使える温泉は人気があって、節水機能を利用している温泉は煙たがられるだろうが、よく考えてみれば客もそんな視点で評価していては時代錯誤ということになりかねない。
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給水量と下水

2007-06-10 09:51:21 | ひとから学ぶ
 「江戸名所図会に見る下水」「井戸と下水溝」で下水に触れてみた。不思議なことに節水しても下水の単位排水量は変わらない。上水にしても下水にしても、1人1日どれだけ給水するか、あるいは排水するかという基準の数値というものがある。それがなかったら、上水施設も下水施設も容量は決まらない。しかし、世のなかが環境に優しいとか、あるいは消費エネルギーを減少させようとすれば、給水にしても排水にしても必要量は減少するはずなのだが、その割にはそんな視点の数値は人前には現れてこない。

 合併浄化槽では、一般住宅における1人1日あたりの汚水量を200リットルとしている。その内容は、便水50、台所30、洗濯40、風呂50、洗面20、掃除用10と想定しているのだ。また、田舎の下水道である農業集落排水では、1人1日300リットルとしている(近ごろこ270リットルに基準が変わったようだが、なぜ変わったかといえば実績によっての修正だという)。たとえば200リットルの内訳をみたとき、自らあまり料理をせず、カップラーメンばかり食べていたり、あるいは外食ばかりしていれば30リットルが多いのか少ないのか一概にはいえなくなる。もちろん外食していてもよそへ行って排水しているから原単位はそれほど変わらないといえるかもしれないが、洗濯や風呂にいたってはその回数で排水量は明らかに違ってくるだろう。年寄りなら毎日洗濯したり風呂に入ったりしないだろうから、老人世帯では排水が少ないだろう。もっといえば昔の暮らしなら水を無駄に使うことはなかった。水洗化によって暮らしは快適になったというかもしれないが、水洗化ということは水を使うわけで、たまたま稲を作らなくなって世の中に水が余っているように見えるかもしれないが、これが増産時代の戦後間もないころだったら、水争いで大変なことになっていただろう。いずれ食料不足がやってくるといわれているが、果たして下水にまわす水はどうなんだ、などと考える人も今はいないだろう。

 さて、水道の利用量に比例して下水道料金が上下するシステムは日本中の常識だろう。給水量は、1日あたり710リットル程度が1戸当たりの値だという。この給水に対しての排水量は給水量に対して80%から90%という。10から20%が洗車とか散水に利用されているということになる。しかしこれもあくまでも平均的な想定値であって、個々違うだろう。我が家のように植木に水道水を利用すると、そのまま下水道料金に跳ね返る。それを解消することは水道を利用している以上不可能だ。どうしてもそれが嫌なら井戸を掘るしかない。せっかく作ったのだからといって、下水への加入を促進するが、人それぞれ生活スタイルが違うのだから、必要ないと思う人がいても当然かもしれない。
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ネット記事の引用について

2007-06-09 09:34:23 | ひとから学ぶ
 6/3中日新聞朝刊の文化欄に「若者を包む宗教環境」というカルチャー記事が掲載されていた。国学院大学の井上順孝氏の記事である。「学生の書くレポートにネット上の記事をそのまま引用する例がここ数年急増していて、教員の悩みの種である。昨年私が担当した学生の卒論が、ネット上の記事を丸ごとダウンロードしたものだということを発見したときは、怒りよりも、虚しさがまさった」という。ネット上の記事を引用しているのかどうかなどというところまで確認することはできないし、ネット上に無記名で掲載されているものは、どちらかというと利用されてもあまり文句も言えない。そんな記事は山ほどあって、今や人の意見や文を、いとも簡単に自分の意見に引用してしまうことなどごく簡単なことである。

 仕事上でも、同僚たちがネット上で検索してはそれらの資料を引用する姿を見て、ネット上の資料がどれほど信憑性が高いかどう確認しているのだ、というようなことを言ったことがあった。従来の論文なら引用文献という形で記載しただろうが、このごろはインターネットのアドレスなんかを引用文献一覧に掲載していたりする。しかし、そのアドレスがいつまで存在しているかはわからない。消え去ることは日常的だろう。ということは、その引用先が、誰のものなのか、あるいはどういった背景のものなのかまったくわからなくなってしまうこともある。だからこそそういう引用はなるべく避けようと条件をだしたくなる。

 わたしが仕事上で引用を避けようといっていたのはもう何年か前のことであって、井上氏の記事を読んでいると、学問の世界でも今やネット上の引用は当たり前のように行なわれているようだ。ネットが登場したことで、人々が言葉を発する機会は多くなったかもしれないが、いっぽうで責任のない言葉が溢れているということになるだろう。それを引用するのが良いとは思えないのだが、学問の世界ではどう規制しているのだろうか、気になるところだ。
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伊那谷学の主張から (2)

2007-06-08 08:29:06 | ひとから学ぶ
 前回触れたように、飯田下伊那地域研究団体連絡協議会のシンポジウムでは飯田市の関係者が2人講演されている。その1人、飯田市長の講演内容に少し触れてみる。牧野市長が誕生して、一貫した地育力の必要性を説いている。そこから受ける一貫した考えは評価されるものだろうし、その考えに沿って自立を目指した地域形成の施策がとられていると、端からは見受けられる。それはそれでけしてわたしがどうこういうことではないのだが、飯田下伊那地域研究団体連絡協議会としての伊那谷学とはちょっと捉え方が異なっていると思っているのは、わたしだけなのだろうか。

 飯田下伊那ではない人々がこの「伊那谷学」を耳にしたときにどう捉えるか、おそらく伊那谷全体をエリアとして捉えるはずである。それは、飯田下伊那以外の伊那谷、いわゆる上伊那の人たちもそう捉えるだろうし、さらにそのエリア外の人たちは、当然のごとく伊那谷を指していると思うだろう。そういう他人のことはあまり意識せずに、ネーミングしたとしたら、それは自分よがりということになってしまう。以前にも触れてきたが、山梨県内の合併後の市が、中央市とか甲斐市とか、あるいは南アルプスとか甲州なんていう名称をつけるのと同じように、本来の地域とネーミングされた感覚的な、あるいは歴史的な地域対象異なってしまい、解り解かりづらくなるわけだ。知らない人は、本来の地域名、あるいは通常言われる地域名をエリアとして捉えるのはごく当たり前のはずだ。そういう他人の捉えかたでいうのなら、やはり「伊那谷学」というネーミングをする以上、そのエリアは伊那谷であるはずだ。北城節雄氏から伊那谷学という言葉を聞いたとき、「伊那谷まるごと博物館構想」という観点からも、伊那谷全体という捉えかただと認識していた。

 ところが飯田市長の講演内容の対象は、飯田市であり、ときおり出てくる下伊那というものはとってつけたようなエリアに感じるのだ。「南信州」「飯田下伊那」「飯田市」「この地域」とエリア名がぽんぽんと飛び出しているのだが、「この地域」という「この」とはどこを指していっているのか、と考えて見ると、どうも飯田市のことなのだ。もちろん市長という肩書きで講演する以上、自らが治めている地域が対象であることはなんら不思議ではないのだが、それでは「伊那谷学」論に適していないと思うのだ。飯田市教育委員会が作成した「地育力向上連携システム推進計画」というものがある。その中の人材育成のための研究機関ネットワーク構成において、「飯田下伊那には、様々な研究団体があり、地域研究団体連絡協議会が横断的な組織となり、伊那谷学(地元学)の研究を行なっています。」と記述されている。しかし、ここでとりあげた人は「伊那谷学」とはどういうものなのか理解して記述しているのだろうか、と疑問を持つわけだ。「伊那谷まるごと博物館構想」から発展した「伊那谷学」なるものが、狭いところへ行ってしまったという感は否めない。

 飯田市には美術博物館を基軸としての活動がある。伊那谷自然友の会は、その基軸で始まったものだが、飯田にこだわらず範囲の広い活動をされている。伊那谷を見回したとき、飯田市のような美術館という基軸はもちろん、歴史研究所まで抱えて活動を行なっている市町村は他にはない。伊那市に博物館らしきものは見当たらない。税金で抱えているものなのだから、よその者が利用するのはおこがましいことなのかもしれないが、ほかの市町村をリードしているだけに、視野の広い取り組みがあって当然だと思う。そういう意味でも、「伊那谷学」を掲げるのなら、地域研究の連携というものは飯田下伊那に限るものではないと思うのだがどうだろう。なにより自らが「中心」という印象で語る飯田市の掲げる「伊那谷学」は、すでに誤った路線で進んでいるといってもよくはないだろうか。「伊那谷の南と北」で触れているように、それぞれが相容れないから連携がとれない。将来の行政エリアというものは予想すらできないほど、自治体の先々は不透明だ。そういう意味でも、行政が「○○学」なんていうものを前面に出してエリアを囲ってしまうのはおかしくはないだろうか。「飯田学」ならわかるが。不思議なことに「南信州」と飯田下伊那をネーミングしておきながら、「伊那谷学」である。てっきり、「伊那」という言葉が嫌いだから「南信州」だと思っていたのだが…。と考えていたら、市長のあとに講演した市教育委員会の方が、全体討議の中でこんなことを述べている。「あえて下伊那郡とか、飯田というのを抜きにして、伊那谷のど(こ―脱字)に位置するかを整理することで理解も深まることから、伊那谷というエリヤが一番いいと思います。しかし伊那だけで呼称した時は現在の伊那市が浮かんでしまうので、伊那谷という表現でどうか、要するに天竜川を中心としたエリヤそんな感覚で捉えています。戦略的に使うなら伊那谷が一番効果的ではないかと考えます」という。「伊那市が浮かんでしまう」なんていう捉え方に、明らかに地域名称にこだわっている姿が見える。これではますます「伊那谷学」はネーミングだけのものになり下がってしまいそうだ。この『伊那』949号をみるかぎり、飯田市以外、とくに郡外の人たちには冷めた見方をする人が多いはずである。選挙戦だったら明らかにマイナスイメージになるだろう。
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井戸と下水溝

2007-06-07 08:28:19 | 歴史から学ぶ
 『多摩のあゆみ』126号の〝「下水」とは何か―近世図絵にみる下水のかたち〟について先日触れたが、近世図会を扱った記事は、柳下重雄氏の〝江戸から明治初期八王子宿の下水の行方〟にもある。甲州道中八王子宿の図絵(国立国会図書館蔵『八王子名勝志』)には、街道沿いの町並みが描かれ、ずいぶんと広い通りの真中に下水と思われる水路らしき溝が見える。ところどころ木の蓋が置かれていて、その蓋は下水の両側を行き来する際に使われるのだろう。その絵の左端、下水の脇に井戸が描かれている。柳下氏の説明によれば「街道の中央に井戸を設ければ街道両側の家が共同で利用できます。まして、街道にそって一列しか家がなかった街としては大変効率的なあり方だといえます。街道の中央に井戸があれば、『八王子物語』にありますように当然そこで洗濯もしたでしょうから、その排水を流すための溝が井戸の脇に沿って設けられることになったのでしょう。」とある。①両側の家から同じ距離にあれば、利用しやすい。②井戸を使うとなれば、その水の排水先が必要で、両側の家の真中に配置する下水と一体的な必要性を帯びてくる。というような観点で井戸と溝は同じ空間に配置されるべきものということになるのだろう。

 長屋の井戸端で洗物をする光景が、時代劇に登場することがよくある。テレビでいえば大岡越前なんかには、そんな場面がよく登場するが、こうした井戸の端にどういう形式で下水が置かれているのか、意識的に観察したことはないが、そういう観点で時代劇を、そして江戸の町を見てみると楽しさは増すのかもしれない。

 ところで、水路の脇に井戸があるという景色は、けして珍しいものではない。前述したように、井戸を使えばその排水先が必要となる。必然的に水路が必要となる。これは井戸というところに用水を求めているから両者の関係がそうしたイメージになるのだが、川の水を利用していた地域ではイメージが違ってくる。農村地帯なら農業用の用水路の水をそのまま汲んで使っていた時代は、そう昔のことではない。少なからず用水路に汚さを意識してくると、水路の脇に漉し井戸を作って、そのまま使うのではなくいったん土の中に浸透した水を漉して使ったりしたものだ。この場合は、水路が先で、あとから井戸ができるというケースになる。農業用の水路が漏水しないように整備されるとともに、そうした井戸の姿もなくなったが、貴重な水を利用するために工夫されていたわけだ。水道がなかった時代には、利用しえる水が、いかに家の近くにあるかが大きなポイントとなった。個々の家が井戸を掘るということはなかなかできなかっただろうから、共同の井戸というものがどこにあるかによって運ぶ距離は違ってくる。そして、飲み水以外の水は、直接川から汲むということがあった。家が川の近くにあることが重要で、とくに嫁に行く際にそんな環境が語られることも多かった。

 中八王子宿の下水にどれほどの水が流れていたかは解らないが、下水の脇に井戸がある、という関係は、そういう意味では必ずしも印象が良くない。下水から漏水した水が井戸に流れ出ることもあるだろう。そんな意味も含め、どのように利用されていたのか興味は尽きない。
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伊那谷学の主張から (1)

2007-06-06 08:28:43 | ひとから学ぶ
 『伊那』(伊那史学会)最新号の949号で、飯田下伊那地域研究団体連絡協議会のシンポジウム特集が組まれている。そのシンポジウムのテーマは「伊那谷学の創造と知育力」とあるが、実はこれは誤字で「地育」が正しいのだと、本文を読んでいると気がつく。これは余談であるが、『伊那』については30年ほど購読しているが、この号ほど誤字が目立つのは今までになかった。ずいぶんと大きなテーマで扱っているのだから、もうちょっと校正をしっかりやって欲しいというのが本音だ。それはともかく、シンポジウムの趣旨というものが巻頭に掲載されている。

 「飯田下伊那地方は、天竜川を中心とする豊かな自然と、大切な歴史や特色ある文化など、地域の価値観として伝えている全国的にも貴重な財産があります。これら地域の財産を学術的に探求する学問、地域学を総称して「伊那谷学」と言います。この伊那谷学が人々と地域を育み、今日の飯田下伊那地域発展につながっています。しかし、そうした地域を顧みる、若い世代・新しい世代の養成がしにくい社会環境になっています。そこで、伊那谷学から、地域の学術・文化的思考能力の向上を目指すとともに、地域の価値観を見直し、地育力に繋げることが大切と考えます。」

 ここでいう伊那谷学(伊那谷学については、以前「南信州とは?」の中でも触れた)は、飯田下伊那という枠で語られているもので、伊那谷全体という捉え方ではないように趣旨からは捉えられる。ところが、この伊那谷学の始まりはいつからなのか、と探って見ると、そう古いことではない。同誌の中でも報告されている、飯田市教育委員会の小林正春氏は、「伊那谷学」が誕生してきた経過のようなことに触れている。しかし、これは飯田市が主体的に導き出したものではないとわたしは認識している。わたしが始めてこの聞きなれない言葉を耳にしたのは、やはり『伊那』の誌上であった。改めて精査しないが、平成18年6月に発行された『伊那』でも飯田下伊那地域研究団体連絡協議会のシンポジウムを特集していて、そのなかで北城節雄氏がシンポジウムの講評の中で若干触れたのが初見のような気がする。もともと北城氏は「伊那谷まるごと博物館」構想というものを持っていた。自然分野においては、まさに飯田下伊那に限ったことではなく、もっと広範に伊那谷全体を見渡してその自然を考え守っていこうというスタンスがあった。そして自然分野に限らず、生活している人々も含め、トータルな学問で発展させようという意識を持っておられたように認識している。だからこそ、この「伊那谷学」というものが生まれたと思うのだが違うのだろうか。今回の949号にも冒頭の口絵において北城氏は「伊那谷まるごと博物館」について触れられている。「基本はそこにあり」と認識していたから、わたしもその考えは良いことだと以前から思っていた。ところが「伊那谷学」になったとたんに枠は飯田下伊那、いや飯田下伊那とは表現ばかりで、実際は飯田市の「伊那谷学」になってしまっているように感じるのだ。これでは伊那谷まるごと博物館というテーマを持っていた北城氏の思惑とは、ずいぶんと課題がすり替わってしまっているという印象は否めない。きっと自然分野の方たちはどこかで「ちょっと違う」と思っているんではないだろうか。まずもって今回のシンポジウム講演者に飯田市長と同教育委員会の生涯学習課長という市の行政関係者が3人の講演者の2人までも占めたことは不幸であったように思う。飯田学とか下伊那学では捉えられないものが伊那谷学にあるとするならば、なぜもっと枠を超えたアプローチがないのか、そう思う。その内容についての意見と、この地域にはびこる「やはり」という問題について次回触れたい。
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川を挟んだ村々

2007-06-05 08:29:02 | 歴史から学ぶ
 先日〝「水枡」という施設〟で水枡のことに触れたが、最近別の場所の水枡の話を聞いた。木曽山用水の場合は、川を挟んだ地域が争うという一般的なケースではない。しかし、一般的に水争いといえば、川に相対した両岸の地域が争うことが多い。もちろんそればかりではなく、木曽山用水を引水しなければならなかった小沢川上流域と下流の村々との対立という図式も、珍しいものではない。いずれにしても「水」というものが、村々を争いに巻き込んできたことは間違いないわけだ。

 同じ伊那市内にある天竜川の支流をはさんで、水争いをしてきた村があった。先に開けた地域は当然先に水を引水している。それにくらべれば後に開かれた村だったり、あるいは開田をした村は、先に水を利用している村から水を分けてもらうことになる。その流儀が事欠いたりすると、災いとなる。争いもそうした何らかの事件が要因となることが多い。そうした争いを治めるためにここの村々では、明治36年に「和解条約書」なるものを結んでいる。条約書には水枡を設けて、枡を溢れる水は元の川へ戻すようにと記されている。先の木曽山用水の水枡は、長さ、幅、深さ、勾配、さらには堰となる枠に木を使い、その木の材質を栂と決めている。それほど精細な条約ではないが、ここもまた枡の幅、長さ、深さ、そして水平に設置することまで記されている。この水枡を修繕あるいは改造する場合は、双方立会いの上行なうとあり、また、その立会いは双方の村長が通知するとある。ところが条約書が結ばれた以降、何回か修繕や移築が行なわれたが、そうした手続き上の不備があって、不満が蓄積してきたようだ。このごろその施設が災害にあって、復旧しようとした際に条約書の内容を忘れていて、ずいぶんともめたようだ。木曽山用水のように、毎年6/1に水枡検査を行なっていれば、条約書が風化することもないのだろうが、修繕や改造の際だけ条約書を持ち出すとなると、めったにないことだからその場の役員が必ず認識しているとも限らない。

 さて、川の両岸というものはなかなか結婚しても仲が悪いことはよくある。昭和の合併時においても、近在では川を挟んだ地域がいくつも合併にこぎつけている。しかし、そうした両岸の村々は、合併後もしばらくの間は仲が悪いということを囁かれてきた。さすがに今もそうした意識を強く持っている人たちはいなくなったが、何かあるごとに、そういう話を事例に出して肴にする人たちは少なからずいる。人々の意識の中に生まれる川の向こうとこっちという意識は、水争いに始まっていることだと気がつく。
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ドラえもんと土管

2007-06-04 08:29:12 | 歴史から学ぶ
 ドラえもんに「最終回」はあるのか?なんていう話題が最近聞こえるが、意外なところでドラえもんが触れられていて、ちょっと考えて見た。『多摩のあゆみ』126号の編集後記に「幼い頃に読んだ、藤子不二雄の漫画『ドラえもん』。のび太やジャイアン、スネオたちが遊ぶ空き地、その絵の中にはしばしば「土管」が積まれていました。本号特集を編集中、それが何故かが腑に落ちた。あれは下水道に使われる土管で、「空き地と土管」は東京郊外に都市化・下水道整備が進む過程で見られた風景なのだ。」と書かれている。本号では「多摩の下水道」を特集している。ドラえもんの連載が始まったのが昭和43年といい、当時の下水道の普及率は、東京都区部で50パーセント程度だったという。ドラえもんの舞台である練馬区周辺ではそうした整備の最中だったわけだ。

 この編集後記を読みながら、子どものころテレビで見ていたドラえもんのそんな風景がよみがえったが、実はこのキーワード「ドラえもん 土管」で検索するとこの関係を捉えた記事がやまほど溢れている。ドラえもん=土管というほどにそのイメージは子どもたちの脳裏に焼きついたのかもしれない。子どものころには視聴したドラえもんも、見なくなって何十年。現代のドラえもんの舞台がどう変化しているかは知らないが、漫画の舞台背景というものも歴史を描いていてユニークな話だ。

 そんな検索したページをみてみると、土管とヒューム管はイコールなものと捉えられているものがほとんどだ。編集後記を書かれた人も同様にヒューム管を土管と言っていたのかもしれないが、土管とはヒューム管とは異なるというのがわたしの認識だった。たとえばINAXのページには

(以下引用)
 日本で最初に使われた土管は、6世紀に朝鮮半島を経由して瓦とともに伝来したもので、宮殿や寺院に使われました。瓦と土管の関係は、丸瓦がちょうどこの土管を半割りしたものになります。しかし、土管は広く普及することはなく、上水道用には木樋(もくひ)や石樋(せきひ)が多く使われていました。その後16世紀には、ソケット付土管が奈良地方を中心に登場します。これは明治時代にイギリスから輸入された近代型土管に最も近いものです。
 明治維新を迎え、大都市の下水道工事や鉄道敷設で大量の土管が必要となり、当時イギリスからの輸入に頼っていたものを国産で対応することになりました。常滑でれんが、テラコッタ、タイルなど数々の近代窯業を手がけてきた鯉江方寿は、素焼管で実績のあった土管造りの技術を生かし、大量受注に成功しました。この時の土管は素焼ではなく、真焼(まやけ)と呼ばれる通常より高温で焼き締めた材質で、強度があり、水漏れしないのが長所でした。その後も常滑は上下水道、農業用水路、鉄道用土管(鉄道開通で断たれた水路の連結用)にと、昭和10年代には土管の生産で空前の活況を呈しました。土管はその後、釉薬をかけたものも作られ、明治34年頃にはマンガン釉、大正11年頃からは塩釉(食塩釉)のものが登場しました。特に塩釉の土管は、1250℃という高温で焼造されるため強度や水漏れに強く、最高品質とされました。
 明治初期の量産型の土管の成形法には、鯉江方寿が明治5年から始めた木型成形があり、小物用のタタラ作り(粘土を板状にして成形)と口径5寸以上の大型用のヨリコ作り(紐作り)があり、いずれも最後は木型に押し付けて、所定の形、寸法に整えられ、さらにソケットを接合して仕上げました。その後、明治34年以降、スクリュー式やピストン式、ロール式の土管製造機が考案され、実用化されました。戦後の昭和36年には、真空土練機とスクリュー式土管機を合体させた竪型真空土管機が実用新案を取得しました。原料を脱気しながら成形するためより緻密な素地を作ることができ、品質が向上しました。


と紹介されている。『ウィキペディア(Wikipedia)』の「土管」の項でも土管にはヒューム管(コンクリート製)を含むようなことが書かれているが、本来は字の通り土を焼いたものを土管と言っていたはずだ。水田地帯の古い暗渠管や用水路の暗渠部に、ときおりそうした土管を見ることがある。今では土管を新たに使うことはないが、時代からいくと、ドラえもんに登場していた土管とは、ヒューム管のことなのだろう。「空き地と土管」というイメージが作られているようだが、土管ではなかったのだ。

 さて、空き地に土管というイメージの空き地は、空き地ではなく工事の資材置き場だった。田舎ならともかく、昭和40年代の東京では、そんな空間が子どもの遊びの場として認知されていたのかどうか、あまりにも子どもたちに受け入れられたドラえもんであるが、舞台背景はさまざまな疑問を投げかけてくれる。
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「水枡」という施設

2007-06-03 09:38:00 | 歴史から学ぶ


 6/1は木曽山用水という井の水枡検査の日である。縁あってその場にい合わせた。奈良井川の上流白川取水口から取水した農業用用水は、奈良井川の支流であるワサビ沢の端にある水枡を経て「木曽山用水」という954メートルの隧道を抜けて伊那谷側の小沢川上流の南沢という川へ放流されている。本来なら日本海へ流れるべく水が、この用水を経て太平洋に導かれているわけだ。こういうケースはあまり例がないという。隧道の前にある「水枡」といわれる施設は、簡単にいえば、水量を制限するための機能を持つ堰である。枡内を通過する水は、その枡の容量以上には下流に流されることはない。水争いが絶えなかった時代に工夫された施設で、あまり一般の人には聞きなれないモノである。写真はその水枡と言われる施設で、隧道前に設置されたものである。枡の大きさは、幅4.5尺、深さ3寸5分、長さは5間である。枡の長さ方向の勾配は、6尺あたり5厘勾配という。取水量にしてわずか毎秒0.1立方メートル弱という些少な水量ではあるが、この水を必要としたのは、伊那市の上戸(あがっと)と中条集落の人々である。

 この井のことを上戸中条井という。実は、この水枡を経て取水される用水は、上戸中条井とは言うものの、上戸や中条の人たちは利用できない。木曽山用水の略図を紹介しているページがある。それを見れば解るように、隧道を経て放流される南沢は、小沢川の支流であるが、上戸中条へ導水するには北沢からでないと取水できない。したがってこの水は同じ小沢川から取水して耕作している人たちへの代替用水なのである。南沢に放流する分を変わりに北沢から取水する。そんなシステムなのだ。なぜ代替になったか。略図にも示されているように本来の上戸中条井は、写真の水枡の位置をさらに延々と山腹を導水し、権兵衛峠脇から伊那谷に越し、いったん北沢に放流され、牛蒡沢水枡で再び定量を取水していたのだ。ところが山腹を延々と導水するともなれば、災害が起きれば水路は瞬く間に崩壊してしまう。昭和36年ころのそうした災害によって現在のシステムが考案されたわけだ。こうした変更を考え出した人たちも、またそれを受け入れた人たちも、苦労は多かっただろうし、いっぽうで見事な利水であることに気がつく。隧道は、4年8ヶ月をかけて昭和43年に完成した。完成後に協定に基づき、6月1日に毎年水枡の立会い検査をしているのだ。

 さて、小沢川流域においては、下流の村々と、上流の村でこの川の取水で争いが続いた。幕府領であった上流と、高遠藩領であった下流ということで、取水権は下流が持っていたようだ。このことについては『伊那市史 歴史編』に若干述べられているが、与地・上戸・中条・大萱という四つの村々は飲み水にも事欠いていたという。明治5年に与地村は小沢川の支流である北沢からの引水が認められ、また、大萱は小沢川から取水していた西町が天竜川から引水できるようにする工事を負担して同じく北沢から引水ができるようになった。さらに、上戸と中条は、明治6年に現在の元となった奈良井川支流の白川取水口からの導水が叶った。

 水枡検査といってもその機能が生きているかを確認するだけのことであるが、そこには立会者としてその流域で水を利用している伊那市、松本市、塩尻市の主要な立場の人たちが参加する。たった0.1立方メートルに満たない水ではあるが、その水をもらうことができることがどれほど大きなことだったかがわかる。よく、農業用水は豊富に流れていて余っているのではないか、という声を聞くが、長年水を苦労して引水してきた人たちにとって、どれほどの権利かは、歴史を読み解くとよくわかる。
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生活の変化

2007-06-02 10:04:22 | つぶやき
 転勤して2ヶ月。生活は大きく変化した。もっとも違うのは1日の生活サイクルだ。3月までは通勤は自転車で10分ほど。だから8時に家を出ても十分間に合った。それでも自ら弁当を詰めて出勤だから、弁当を作る時間は起床してから必要だ。慣れてくればそれも30分はかからない。だから7時ごろに起床すれば、ゆっくりと仕事前の1日が滑り出す。ところが、4月以降は通勤に1時間以上要する。弁当を自ら用意することはなくなったが、息子の弁当とわたしの弁当の二つを作る母は大忙しで、加えてとろくさい息子が母の機嫌を大きく左右するから、弁当詰めはわたしも手伝わなければなかなか家を出ることができない。かなり時間に余裕を持っているのに、なぜか7時前後は慌ただしい。これは長野勤務だった3月までとは違う。

 年老いた犬がだいぶ気になるようになった。同僚は帰宅してから夜10時ごろ散歩に連れて行ってあげるというが、ちょっとそこまでして夜散歩に出る気にはなれない。となれば今まで手をかけてあげられなかった分を取り返そうと、犬に接してあげるには朝の時間しかない。ということで、3月までは就寝時間が午前零時以前ということはなく、午前1時や2時というのが当たり前だったが、4月以降は就寝時間が早くなった。そして起床の目標は5時なのだが、なかなか通勤の疲れか、目標どおりにはいかない。夜型を朝型に変えるのは容易ではないのだ。それでも目標どおりにはいかなくても、朝飯前の散歩に取り組んでいる。同じパターンを続けるから、土日も同様に目標は5時である。ずいぶんな変化である。

 昔から農家は早起きと言ったが、今でも5時代に散歩に出れば、すでに仕事を終えて帰ってくる人もいる。もちろんサラリーマン農家ではなく、専業でやっている人たちである。こうした農家がいつまで存在できるかといえば、あと10年くらいなのかもしれない。その農家をもってしても土地は荒れ、しだいに農村地帯という趣を内面から解き始めている。今や農村地帯とは形ばかりで、実情は「農」という字を当てはめにくくなっている。

 日中に犬を連れて歩く、なんていうことはなかなか恥ずかしくてできないと思っていたが、早朝もそこそこ早くないと、そんな呑気なことはしていられない、という雰囲気があるだけ、まだ良いのだと思っている。
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江戸名所図会に見る下水

2007-06-01 08:29:04 | 歴史から学ぶ
 〝「下水」とは何か―近世図会にみる下水のかたち〟と題し、日本下水文化研究会の栗田彰氏は『多摩のあゆみ』126号(たましん地域文化財団)で触れている。江戸における下水の話はときおり耳にする。人口集中は当時からあったわけで、大都市江戸の人々の排水は、江戸名所図会のほかさまざまな絵に姿を読み取ることができるようだ。栗田氏は、江戸名所図会から読み取れる下水施設をいくつか紹介している。今回、この江戸名所図会をページ上で拝見できないかと探すと、意外にも図を扱っているページがけっこうある。「鬼平犯科帳と江戸名所図会」や「鬼平犯科帳 彩色 江戸名所図会」などはたくさんの図を掲載していて、のぞいているだけでも楽しくなる。もう少し図が大きければ、わたしもそこからさまざまなモノを読み解いてみたいが、いかんせん細かくてよく見えないものが多い。

 さて、栗田氏が紹介している図を、わたしもちょっとのぞいて見ることにする。

①「竹女故事」は、下女奉公をしている「たけ」を描いたものだが、実は「たけ」は大日如来の化身であるという。たけは流し台に取り付けた網にたまる飯粒を食べて、自分の食事を物乞いにくる者たちに与えていた。「わたしの彩の『江戸名所図会』」に掲載されている図を見ると、流し台の網の部分から後光が差しているのがわかる。不自然な光であるが、それだけこの網がこの絵の中で意図的な存在なんだろう。今でもゴミを下水に流さないようにストレーナーが設けられるが、その考え方は昔も今も同じで、江戸の暮らしが今と迎合する。

②「霞ヶ関」の挿絵には、大名屋敷の石垣に沿って下水が描かれている。そして屋敷側の石垣には、黒い箱が取り付いている。この施設は、下水が勢いよく飛び出さないように、流れを下に向けるための器具である。ときに同じようなものは、今でもさまざまな場所で見ることができる。同じ下水道でいうのなら、マンホール内へ圧送された管の突端に、今でも同じようにパイプの先にこうした箱が被せられている。一般の人たちは目にすることはないが、バッフル板などという。目的は江戸時代変わりはない。

③「鮫が橋」が渡る川は鮫河と呼ばれていた川で、四谷から赤坂方面へ流れていた。この川を近在の人たちは「大下水」と呼んでいたという。橋の下の川の中に木の杭が何本も打たれている。下水を流れてくるゴミを取り除くために杭が打たれているという。今で言うならスクリーンである。

 このようにかつての下水は、生活排水が流される川で、し尿とは分離していた。それでも工夫がされていたわけで、少し前の田舎のような上下一緒ということは、大都市からはすでに江戸時代に消えていたわけだ。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****