Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

伊那谷学の主張から (1)

2007-06-06 08:28:43 | ひとから学ぶ
 『伊那』(伊那史学会)最新号の949号で、飯田下伊那地域研究団体連絡協議会のシンポジウム特集が組まれている。そのシンポジウムのテーマは「伊那谷学の創造と知育力」とあるが、実はこれは誤字で「地育」が正しいのだと、本文を読んでいると気がつく。これは余談であるが、『伊那』については30年ほど購読しているが、この号ほど誤字が目立つのは今までになかった。ずいぶんと大きなテーマで扱っているのだから、もうちょっと校正をしっかりやって欲しいというのが本音だ。それはともかく、シンポジウムの趣旨というものが巻頭に掲載されている。

 「飯田下伊那地方は、天竜川を中心とする豊かな自然と、大切な歴史や特色ある文化など、地域の価値観として伝えている全国的にも貴重な財産があります。これら地域の財産を学術的に探求する学問、地域学を総称して「伊那谷学」と言います。この伊那谷学が人々と地域を育み、今日の飯田下伊那地域発展につながっています。しかし、そうした地域を顧みる、若い世代・新しい世代の養成がしにくい社会環境になっています。そこで、伊那谷学から、地域の学術・文化的思考能力の向上を目指すとともに、地域の価値観を見直し、地育力に繋げることが大切と考えます。」

 ここでいう伊那谷学(伊那谷学については、以前「南信州とは?」の中でも触れた)は、飯田下伊那という枠で語られているもので、伊那谷全体という捉え方ではないように趣旨からは捉えられる。ところが、この伊那谷学の始まりはいつからなのか、と探って見ると、そう古いことではない。同誌の中でも報告されている、飯田市教育委員会の小林正春氏は、「伊那谷学」が誕生してきた経過のようなことに触れている。しかし、これは飯田市が主体的に導き出したものではないとわたしは認識している。わたしが始めてこの聞きなれない言葉を耳にしたのは、やはり『伊那』の誌上であった。改めて精査しないが、平成18年6月に発行された『伊那』でも飯田下伊那地域研究団体連絡協議会のシンポジウムを特集していて、そのなかで北城節雄氏がシンポジウムの講評の中で若干触れたのが初見のような気がする。もともと北城氏は「伊那谷まるごと博物館」構想というものを持っていた。自然分野においては、まさに飯田下伊那に限ったことではなく、もっと広範に伊那谷全体を見渡してその自然を考え守っていこうというスタンスがあった。そして自然分野に限らず、生活している人々も含め、トータルな学問で発展させようという意識を持っておられたように認識している。だからこそ、この「伊那谷学」というものが生まれたと思うのだが違うのだろうか。今回の949号にも冒頭の口絵において北城氏は「伊那谷まるごと博物館」について触れられている。「基本はそこにあり」と認識していたから、わたしもその考えは良いことだと以前から思っていた。ところが「伊那谷学」になったとたんに枠は飯田下伊那、いや飯田下伊那とは表現ばかりで、実際は飯田市の「伊那谷学」になってしまっているように感じるのだ。これでは伊那谷まるごと博物館というテーマを持っていた北城氏の思惑とは、ずいぶんと課題がすり替わってしまっているという印象は否めない。きっと自然分野の方たちはどこかで「ちょっと違う」と思っているんではないだろうか。まずもって今回のシンポジウム講演者に飯田市長と同教育委員会の生涯学習課長という市の行政関係者が3人の講演者の2人までも占めたことは不幸であったように思う。飯田学とか下伊那学では捉えられないものが伊那谷学にあるとするならば、なぜもっと枠を超えたアプローチがないのか、そう思う。その内容についての意見と、この地域にはびこる「やはり」という問題について次回触れたい。

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