Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「水枡」という施設

2007-06-03 09:38:00 | 歴史から学ぶ


 6/1は木曽山用水という井の水枡検査の日である。縁あってその場にい合わせた。奈良井川の上流白川取水口から取水した農業用用水は、奈良井川の支流であるワサビ沢の端にある水枡を経て「木曽山用水」という954メートルの隧道を抜けて伊那谷側の小沢川上流の南沢という川へ放流されている。本来なら日本海へ流れるべく水が、この用水を経て太平洋に導かれているわけだ。こういうケースはあまり例がないという。隧道の前にある「水枡」といわれる施設は、簡単にいえば、水量を制限するための機能を持つ堰である。枡内を通過する水は、その枡の容量以上には下流に流されることはない。水争いが絶えなかった時代に工夫された施設で、あまり一般の人には聞きなれないモノである。写真はその水枡と言われる施設で、隧道前に設置されたものである。枡の大きさは、幅4.5尺、深さ3寸5分、長さは5間である。枡の長さ方向の勾配は、6尺あたり5厘勾配という。取水量にしてわずか毎秒0.1立方メートル弱という些少な水量ではあるが、この水を必要としたのは、伊那市の上戸(あがっと)と中条集落の人々である。

 この井のことを上戸中条井という。実は、この水枡を経て取水される用水は、上戸中条井とは言うものの、上戸や中条の人たちは利用できない。木曽山用水の略図を紹介しているページがある。それを見れば解るように、隧道を経て放流される南沢は、小沢川の支流であるが、上戸中条へ導水するには北沢からでないと取水できない。したがってこの水は同じ小沢川から取水して耕作している人たちへの代替用水なのである。南沢に放流する分を変わりに北沢から取水する。そんなシステムなのだ。なぜ代替になったか。略図にも示されているように本来の上戸中条井は、写真の水枡の位置をさらに延々と山腹を導水し、権兵衛峠脇から伊那谷に越し、いったん北沢に放流され、牛蒡沢水枡で再び定量を取水していたのだ。ところが山腹を延々と導水するともなれば、災害が起きれば水路は瞬く間に崩壊してしまう。昭和36年ころのそうした災害によって現在のシステムが考案されたわけだ。こうした変更を考え出した人たちも、またそれを受け入れた人たちも、苦労は多かっただろうし、いっぽうで見事な利水であることに気がつく。隧道は、4年8ヶ月をかけて昭和43年に完成した。完成後に協定に基づき、6月1日に毎年水枡の立会い検査をしているのだ。

 さて、小沢川流域においては、下流の村々と、上流の村でこの川の取水で争いが続いた。幕府領であった上流と、高遠藩領であった下流ということで、取水権は下流が持っていたようだ。このことについては『伊那市史 歴史編』に若干述べられているが、与地・上戸・中条・大萱という四つの村々は飲み水にも事欠いていたという。明治5年に与地村は小沢川の支流である北沢からの引水が認められ、また、大萱は小沢川から取水していた西町が天竜川から引水できるようにする工事を負担して同じく北沢から引水ができるようになった。さらに、上戸と中条は、明治6年に現在の元となった奈良井川支流の白川取水口からの導水が叶った。

 水枡検査といってもその機能が生きているかを確認するだけのことであるが、そこには立会者としてその流域で水を利用している伊那市、松本市、塩尻市の主要な立場の人たちが参加する。たった0.1立方メートルに満たない水ではあるが、その水をもらうことができることがどれほど大きなことだったかがわかる。よく、農業用水は豊富に流れていて余っているのではないか、という声を聞くが、長年水を苦労して引水してきた人たちにとって、どれほどの権利かは、歴史を読み解くとよくわかる。
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