Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

川を挟んだ村々

2007-06-05 08:29:02 | 歴史から学ぶ
 先日〝「水枡」という施設〟で水枡のことに触れたが、最近別の場所の水枡の話を聞いた。木曽山用水の場合は、川を挟んだ地域が争うという一般的なケースではない。しかし、一般的に水争いといえば、川に相対した両岸の地域が争うことが多い。もちろんそればかりではなく、木曽山用水を引水しなければならなかった小沢川上流域と下流の村々との対立という図式も、珍しいものではない。いずれにしても「水」というものが、村々を争いに巻き込んできたことは間違いないわけだ。

 同じ伊那市内にある天竜川の支流をはさんで、水争いをしてきた村があった。先に開けた地域は当然先に水を引水している。それにくらべれば後に開かれた村だったり、あるいは開田をした村は、先に水を利用している村から水を分けてもらうことになる。その流儀が事欠いたりすると、災いとなる。争いもそうした何らかの事件が要因となることが多い。そうした争いを治めるためにここの村々では、明治36年に「和解条約書」なるものを結んでいる。条約書には水枡を設けて、枡を溢れる水は元の川へ戻すようにと記されている。先の木曽山用水の水枡は、長さ、幅、深さ、勾配、さらには堰となる枠に木を使い、その木の材質を栂と決めている。それほど精細な条約ではないが、ここもまた枡の幅、長さ、深さ、そして水平に設置することまで記されている。この水枡を修繕あるいは改造する場合は、双方立会いの上行なうとあり、また、その立会いは双方の村長が通知するとある。ところが条約書が結ばれた以降、何回か修繕や移築が行なわれたが、そうした手続き上の不備があって、不満が蓄積してきたようだ。このごろその施設が災害にあって、復旧しようとした際に条約書の内容を忘れていて、ずいぶんともめたようだ。木曽山用水のように、毎年6/1に水枡検査を行なっていれば、条約書が風化することもないのだろうが、修繕や改造の際だけ条約書を持ち出すとなると、めったにないことだからその場の役員が必ず認識しているとも限らない。

 さて、川の両岸というものはなかなか結婚しても仲が悪いことはよくある。昭和の合併時においても、近在では川を挟んだ地域がいくつも合併にこぎつけている。しかし、そうした両岸の村々は、合併後もしばらくの間は仲が悪いということを囁かれてきた。さすがに今もそうした意識を強く持っている人たちはいなくなったが、何かあるごとに、そういう話を事例に出して肴にする人たちは少なからずいる。人々の意識の中に生まれる川の向こうとこっちという意識は、水争いに始まっていることだと気がつく。
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