Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

井戸と下水溝

2007-06-07 08:28:19 | 歴史から学ぶ
 『多摩のあゆみ』126号の〝「下水」とは何か―近世図絵にみる下水のかたち〟について先日触れたが、近世図会を扱った記事は、柳下重雄氏の〝江戸から明治初期八王子宿の下水の行方〟にもある。甲州道中八王子宿の図絵(国立国会図書館蔵『八王子名勝志』)には、街道沿いの町並みが描かれ、ずいぶんと広い通りの真中に下水と思われる水路らしき溝が見える。ところどころ木の蓋が置かれていて、その蓋は下水の両側を行き来する際に使われるのだろう。その絵の左端、下水の脇に井戸が描かれている。柳下氏の説明によれば「街道の中央に井戸を設ければ街道両側の家が共同で利用できます。まして、街道にそって一列しか家がなかった街としては大変効率的なあり方だといえます。街道の中央に井戸があれば、『八王子物語』にありますように当然そこで洗濯もしたでしょうから、その排水を流すための溝が井戸の脇に沿って設けられることになったのでしょう。」とある。①両側の家から同じ距離にあれば、利用しやすい。②井戸を使うとなれば、その水の排水先が必要で、両側の家の真中に配置する下水と一体的な必要性を帯びてくる。というような観点で井戸と溝は同じ空間に配置されるべきものということになるのだろう。

 長屋の井戸端で洗物をする光景が、時代劇に登場することがよくある。テレビでいえば大岡越前なんかには、そんな場面がよく登場するが、こうした井戸の端にどういう形式で下水が置かれているのか、意識的に観察したことはないが、そういう観点で時代劇を、そして江戸の町を見てみると楽しさは増すのかもしれない。

 ところで、水路の脇に井戸があるという景色は、けして珍しいものではない。前述したように、井戸を使えばその排水先が必要となる。必然的に水路が必要となる。これは井戸というところに用水を求めているから両者の関係がそうしたイメージになるのだが、川の水を利用していた地域ではイメージが違ってくる。農村地帯なら農業用の用水路の水をそのまま汲んで使っていた時代は、そう昔のことではない。少なからず用水路に汚さを意識してくると、水路の脇に漉し井戸を作って、そのまま使うのではなくいったん土の中に浸透した水を漉して使ったりしたものだ。この場合は、水路が先で、あとから井戸ができるというケースになる。農業用の水路が漏水しないように整備されるとともに、そうした井戸の姿もなくなったが、貴重な水を利用するために工夫されていたわけだ。水道がなかった時代には、利用しえる水が、いかに家の近くにあるかが大きなポイントとなった。個々の家が井戸を掘るということはなかなかできなかっただろうから、共同の井戸というものがどこにあるかによって運ぶ距離は違ってくる。そして、飲み水以外の水は、直接川から汲むということがあった。家が川の近くにあることが重要で、とくに嫁に行く際にそんな環境が語られることも多かった。

 中八王子宿の下水にどれほどの水が流れていたかは解らないが、下水の脇に井戸がある、という関係は、そういう意味では必ずしも印象が良くない。下水から漏水した水が井戸に流れ出ることもあるだろう。そんな意味も含め、どのように利用されていたのか興味は尽きない。
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