Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

人と行き交うということ

2007-06-21 08:27:02 | ひとから学ぶ
 駅へ向かう道、道に沿う家の老人がわたしと同じ方向へゆっくりと歩いている。後ろから「おはようございます」と声をかけ、老人を足早に追い越すと、「いってらっしゃい」と後ろから大きな声をかけてくれる。こんな経験はしばらくなかったことだ。もしかしたら、子どものころ以来の経験やも知れぬ。駅まで歩くようになると、こうして人と接する機会は多くなった。駅が野原の一軒やならともかく、おおかたの駅の周辺には家々が密集しているから、人と会う機会が多くなるのは当たり前である。田舎ともなれば、すぐそこに行くにも車を使う。隣組の内々を行き来するにも車を利用するのは当たり前である。前述のような声を掛け合うような空間はおのずと減少する。もちろん車でも立ち止まって窓越しに会話をしている姿を見るが、このようなことはよほど会話を交わす必要があるような場合をのぞけばまずないだろう。

 農村地帯における情報交換という面では、このように車を多様するようになると減少するのは必然である。知り合いと行き交っても車となれば、合図を交わすにしても会話を生むケースは前述のごとくほとんど生まれない。農村地帯が分裂してきたのにはこんなところに起因する。歩いていれば立ち止まることはあるし、会話を簡単に交わすこともある。挨拶とは挨拶だけではないのだ。そこからどう発展するかという部分を含んでいるといえよう。わたしの通勤途中にはまずそういうことはないが、挨拶なくして先には進まないという現実がそこにある。

 都会はもちろんだろうが、先ごろまで暮らしていた長野市内であっても街中を歩いていて見ず知らずの人と挨拶を交わすことはない。どいう空間から挨拶が始まるのか、微妙な心理がそこにはあるのだろうが、おそらく街中で挨拶を交わしていない人たちでも、交わさなかった人が田舎の道でも歩いていたら、知らずに挨拶を交わしているかもしれない。その微妙な雰囲気というものは、道という空間がひとつの部屋のようなものになっているからかも知れない。もちろん道と道に隣接する土地との間に壁はないが、人が行き交う場所は道だけだからだ。どんなに広い空間であっても、そこにもし二人だけ人がいたとしたら、その空気は部屋の中の空気に近いはずだ。すると会話を交わす必要はなくとも、挨拶をしたくなる雰囲気は生まれるはずだ。田舎だからこそ歩くことによる情報交換というものがあったはずなのに、そのメリットたる環境を断ち切っているのが今の田舎に暮らす人々の現実である。ようは、田舎で暮らす人々ほど歩く必要があるにもかかわらず、道が空いていて車を利用する価値観を得やすいからこうした社会を築いてきた。田舎と都会は違うんだという認識を持たずに、同じ価値観でもって同じ環境を求めるから、現実的には環境が異なるのに、同じものを欲してしまうわけだ。

 自宅からの通勤を始めてから、以前にも触れているように犬とともに散歩に出かけるようになった。そして電車通勤とともに、さらに道で行き交う人々は多くなった。とはいえ、述べてきているように、隣組を回るにも車を使う世の中だから、散居状態の農村地帯で人と行き交うことはそれほどない。いまさら何を言うんだ、と言われても仕方ないが、歩く時間を持てる余裕というものが田舎には欲しいと思うのだが、時間的価値観は都会も田舎も変わりはない。
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