Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

江戸名所図会に見る下水

2007-06-01 08:29:04 | 歴史から学ぶ
 〝「下水」とは何か―近世図会にみる下水のかたち〟と題し、日本下水文化研究会の栗田彰氏は『多摩のあゆみ』126号(たましん地域文化財団)で触れている。江戸における下水の話はときおり耳にする。人口集中は当時からあったわけで、大都市江戸の人々の排水は、江戸名所図会のほかさまざまな絵に姿を読み取ることができるようだ。栗田氏は、江戸名所図会から読み取れる下水施設をいくつか紹介している。今回、この江戸名所図会をページ上で拝見できないかと探すと、意外にも図を扱っているページがけっこうある。「鬼平犯科帳と江戸名所図会」や「鬼平犯科帳 彩色 江戸名所図会」などはたくさんの図を掲載していて、のぞいているだけでも楽しくなる。もう少し図が大きければ、わたしもそこからさまざまなモノを読み解いてみたいが、いかんせん細かくてよく見えないものが多い。

 さて、栗田氏が紹介している図を、わたしもちょっとのぞいて見ることにする。

①「竹女故事」は、下女奉公をしている「たけ」を描いたものだが、実は「たけ」は大日如来の化身であるという。たけは流し台に取り付けた網にたまる飯粒を食べて、自分の食事を物乞いにくる者たちに与えていた。「わたしの彩の『江戸名所図会』」に掲載されている図を見ると、流し台の網の部分から後光が差しているのがわかる。不自然な光であるが、それだけこの網がこの絵の中で意図的な存在なんだろう。今でもゴミを下水に流さないようにストレーナーが設けられるが、その考え方は昔も今も同じで、江戸の暮らしが今と迎合する。

②「霞ヶ関」の挿絵には、大名屋敷の石垣に沿って下水が描かれている。そして屋敷側の石垣には、黒い箱が取り付いている。この施設は、下水が勢いよく飛び出さないように、流れを下に向けるための器具である。ときに同じようなものは、今でもさまざまな場所で見ることができる。同じ下水道でいうのなら、マンホール内へ圧送された管の突端に、今でも同じようにパイプの先にこうした箱が被せられている。一般の人たちは目にすることはないが、バッフル板などという。目的は江戸時代変わりはない。

③「鮫が橋」が渡る川は鮫河と呼ばれていた川で、四谷から赤坂方面へ流れていた。この川を近在の人たちは「大下水」と呼んでいたという。橋の下の川の中に木の杭が何本も打たれている。下水を流れてくるゴミを取り除くために杭が打たれているという。今で言うならスクリーンである。

 このようにかつての下水は、生活排水が流される川で、し尿とは分離していた。それでも工夫がされていたわけで、少し前の田舎のような上下一緒ということは、大都市からはすでに江戸時代に消えていたわけだ。

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