Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

風呂の湯

2007-06-11 08:29:04 | ひとから学ぶ
 銭湯や温泉に入ると気持ちよい、と思う一つの理由に、きままにお湯が使えるということがあるだろう。とくに掛け流しの温泉ともなると、常に新鮮な湯が湧いているという印象は、特段に気持ちよさを与える。それはそれで温泉のよさなのだろう。もちろん水も同じで、循環している水だったり、再利用されている水だったらきっと気持ちよく利用できなくなってしまう。その先でどういう環境があろうとも、山の中の沢水の流れを見ていると新鮮さや清らかさを覚えるのと同じだ。ところが、入浴という行為のなかで、常にそんな水にありついていたら、この世のなか水の使い捨てになってしまう。

 自宅の風呂に入っていると、妻は盛んに「風呂の湯を洗い湯に使うように」という。さすがに経済観念が高いからそういう発想になる。男と女の違いとはそういうところだと昔から思っていたが、今やそういう対比ができるかどうかは疑問になってきている。それはさておき、あまり経済観念のないわたしは、体を洗うときにはシャワーを使ってしまう。洗う湯だから、そのまま排水溝へ流れていってしまう。考えて見れば新しい湯を捨てて、風呂の中の古い湯をそのまま他の人が利用するというのも「もったいない」というか、不合理だといえるだろう。シャワーという機能がこの世に登場したおかげで、水の利用量が増えたに違いない。それよりも毎日風呂に入るのだからそれだけで大きく違う。子どものころ、眠たくなるとそのまま寝てしまうということは週に何度もあった。だからといって臭いと気にしたこともなかったし、匂いの記憶というものは残らないということに気がつく。毎日風呂を沸かすということはなかったし、もっといえば昔は家に内湯というものがないのはごく普通のことだった。風呂という空間が一般の農家の中に登場してきたのは、それほど古いことではない。香水だって嫌な匂いを消すためにあったもので、無臭の世界に無理に臭気を漂わせる理由はないと思うのだが、そうした意識は変化してしまっている。

 さて「環境にやさしい」というはやり言葉に合わせるなら、風呂に毎日入らない、あるいは入っても湯をなるべく交換しない、というような方法が浮かんでくる。前述したように、かつては毎日風呂に入るという常識はなかった。しかし、いつのころからか毎日入るのが当たり前になったが、果たしてそれはわが家のことで、よその家も常識かどうかは解らない。①風呂を沸かす頻度、②湯を交換する頻度、それらは果たしてどれほど家ごと違い、なぜそうするのか、気になるところだ。もちろん家族の人数によっても異なるだろう。温泉などを利用しても、洗い場で自由に湯が使えるとありがたい。時に蛇口を1回押すと、一定量出て止まるというものがある。そんな時「面倒くさい」と思い、そんな温泉は「ケチだ」なんて言われかねないが、逆の視点でみるなら、水を大事に使用することを心がけているということになる。その背景には、節水することで経費を節減したいというものがあるだろうが、そのおかげで無駄な水を使っていないということにもなる。おそらく自由に使える温泉は人気があって、節水機能を利用している温泉は煙たがられるだろうが、よく考えてみれば客もそんな視点で評価していては時代錯誤ということになりかねない。
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