Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

29年前の中条村から

2007-06-13 08:27:07 | 歴史から学ぶ
 昭和53年に村の人口が四半世紀で三分の二になったというから約6千人の人口が4千人程度になったということだろう。これは上水内郡中条村の昭和53年の姿である。現在の中条村のホームページに昭和53年の人口は表示されていないが、推定するに約4千人というところだ。そして、現在は3千人を切っている。高齢化率が高い自治体というと、必ず下伊那郡の村々が浮かぶが、長野市近辺では特別目立っている中城村で下伊那郡の村々に高齢化率ではひけをとらない。長野市から車で20分程度だというのに、若者が居つかないのだ。

 ここに昭和53年11月26日の信濃毎日新聞朝刊にあった特集「ふるさと今」の記事がある。長野県内の市町村をひとつずつ毎回特集している記事で、当時は少し興味があると切り抜いてはスクラップをしていた。以前にも書いたが、なにしろガラクタ好きだったから、なんでも集めた。そんなスクラップもたくさんになりすぎて、かなり廃棄したのだが、この特集記事はスクラップからはがして、束ねて棚に積まれていた。懐かしく黄ばんだ切れ端をめくると、中条村が登場したのだ。この春まで盛んに通った中条村だから、ことさら目に留まる。「ふるさと今」では、長野市に20分程度のところにありながら、通勤する時間帯には1時間20分と1時間もよけいにかかってしまい、それが人々を苦しめていると記述されている。電車でも走っていればよいが、バスともなれば同じ道路を通るから遅れる。それを回避するためにはあらかじめ早く家を出るか、あるいは長野に住む以外にはない。村内に働く場がなければそれも仕方のないことだったのだろう。

 わたしも自宅から長野へ向かう月曜日に、通勤時間帯に国道19号を利用して長野市に入っていた時期があった。しかし、この昭和53年ほどの渋滞はもう起きない。それはオリンピックによる白馬と長野を結ぶ道路ができたことによってかなり解消されたと思われる。しかし、人々が村を出る現象が止まったとはいえないだろう。「車は通らないが人は多い」で触れたように、平日の村の姿を見る限り老人しか姿をみない。「村に住まない村の職員」で触れた長野市近郊の村は、この村のことだ。もしかしたら、長野市からこの村に通勤するには、快適に20分程度で来られるのかもしれない。皮肉な話しだ。「ふるさと今」の中で、中条高校を卒業して長野市に出た美容師さん2人の話が取り上げられている。当初は村に帰って暮らしたいと思っていたものの、今では村には暮らさないだろう、と考えている。そして、弟や妹たちは、中条高校へ進まず、長野市内へ出たいといっているという。まだまだ当時は村にあった高校に進学する人たちが多かったのだろうが、今や、希望者が少なく、統合致し方なしという状況だ。そんな村の人たちの声を取り上げている記事であるが、驚いたことに、ついこの3月まで仕事でお世話になっていた方の名前がそこに見えた。当時中条高校に通って野球部にいたYさんだ。彼は今も村にとどまって仕事をしている。さまざまな若者が、さまざまに思いをもってその後の約30年を過ごしていることだろう。記事に取り上げられている大きな写真は、東京の石油開発会社がボーリングを昼夜問わずに行なっているものだ。「出てくるのは石油か、天然ガスか。昼夜を分かたない試掘作業を、村民は熱いまなざしで見守っている。それは、地中に埋まる「中条のあす」を掘り起こすのに似ているからだろう。」と記事は締めくくっている。仕事でそんな試掘された後の土地を訪れたことがあった。もちろんそこからは何も発展はなく、その恩恵は何も残っていない。記事の3分の1を占めるような写真は、いかに村がこの試掘に期待していたかが解る。

 最後に、この村の多くの人々は、長野市への合併は致し方ないと踏んでいる。いや、早く合併をしてほしいという声も多い。しかし、この高齢化率の高い村は、長野市に紛れ込んだ途端に、高齢化率が表に出なくなる。おそらく同じような道を歩んだ旧大岡村や鬼無里村のその後をみるにつけ、まぎれるとともにその地域の課題が見えなくなることも事実だ。
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