Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

盆を思う③

2009-08-25 19:24:05 | つぶやき
 仏様をお墓に迎えに行くのだから送るのもお墓といえば整合しているのかもしれない。以前中川村の各地区の盆行事をアンケートでまとめた際にも、どこへ送るのかという問いに対して、「お墓」と答える例は多かった。もともと墓地だったのかそれとも昔は違うところに送ったのか、そこまで詳細に確認はしていないが、中川村の隣に生まれたわたしにとっては「昔は川へ送った」のではないかと思っている。川が身近にない地域ならともかく、中川村なら村の名前に「川」がついているように川との関わりが深い。したがって川へ流してもまったく不思議ではないのである。墓地から迎えてなぜ川なのかということになるが、そもそも墓地から迎えているものは川に送っている仏様ではないのではないだろうか。このあたりに祖霊と新仏の違いがあるのだろう。以前にも触れたように伊那市近辺では新仏は同市美篶の段丘上の原っぱにある六道地蔵尊へ迎えに行く。境内の松の枝に降りてくると言われ、松の小枝を折って「これにお乗りください」といって迎えにいったのである。今でこそ松の木が大木になってしまい、手の届くところに松の枝はなくなったてしまった。これではお迎えできないため、六道地蔵尊の祭りを担っている人たちが松の枝を用意していて、お金を払うといただけるというわけだ。イメージとしては依り代に降りてきた仏様は、帰りは水に乗って流れていくという具合で、上から下へという図式はイメージし易い。

 ところで京都で精霊迎えに行くのは六道さんで知られる珍皇寺である。8月初旬の精霊迎えの季節に訪れたことはないが、ふだんはまったく人気のない境内が、精霊迎えにはお迎えの人々で賑わうというのだからふだんとは大違いである。ここでは高野槇の葉を買い求めて行くのだそうで、この高野槇に乗って先祖が帰っていくと言う。六道地蔵尊の松の枝と同じなのである。京都でも珍皇寺から迎えられた祖先の霊は、加茂川や堀川で送られる。

 中川村で調べた際に調査をされた方の一人が飯島町の高遠原の出身で、子どものころの盆の様子を教えてくれた。それによると、13日の午後3時ころになると家族みんなで墓へ行ったといい、行きがけには辻になっているところに麦わらを置いていったと言う。墓地では父親が「皆様今年もお盆が来ました。お迎えに来ました。子どもも元気で来ました」と拝礼し、残しておいた一把の線香に火をつけてそれを持って家へ帰って行く。そして行きがけに置いていった麦わらに火をつけ、線香を1本ずつ立てて行った。家の前で兄が麦わらに火をつけ、両手でそれを持って「マンド、マンド燃えろ」と2、3回振り回した。棚へ墓地から持ってきた線香を立ててみなで拝む。そして母親が「遠い所をおいでて、お疲れになっつらなん。ひと休みしたらお風呂へお入りなんしょ」と言って風呂の蓋を取りに行ったと言う。家族みんなでお迎えに行き、それでも道を間違えてはいけないように辻々に火を灯し丁寧に家へ迎えるわけである。この記憶のとおりに行なわれたのは昭和10年ころのことだと言う。わたしの生家に近い地域であるが、辻に火を灯すこと、そして振りマンドをすることは知らなかった。天龍村大河内では迎えの夜、百八の松明を灯し、その中をかけ踊りの集団が新盆の見舞いにやってくる。県境域にはこうした百八の松明を灯すところが今でもあり、下伊那郡ではかつて灯したというところも多い。この時代であってもそうした迎えの行為に接すると、本当にご先祖様が帰って来るんだと思えるところに心意の奥深さを感じるわけである。
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