Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

盆を思う①

2009-08-19 12:25:46 | つぶやき
 盆が終わってから盆のことにいろいろ触れているようなことではいけないのだが、昨日も触れたように盆は正月以上にわたしたちの心の中に残る季節であることは言うまでもない。なぜならば身内がいれば必ず人は亡くなるわけで亡くなった霊や仏というものに少なからず現代人もかかわっていく。もちろん仏教ではない人にはかかわり無いことであろうが、とくに信心している対象がなくともこの感覚は日本人から容易には取り除かれないだろう。地方にあっては多くは地元に留まることなくよそへ、とくに都会へ出て行く。家族との関わりが薄くなった現代においても、盆に帰省するという思いは、仏が盆に帰っていくのと似ている。期を同じくして家へ里へと帰る行動の原点に、盆という決まりきった期間はとても整合した心のよりどころとなっているのである。農業が衰退したとしても盆にかかわる行事はそれとは関係のないところで催されるものであって、衰退しにくい年中行事であることはいうまでもない。

 盆と正月はどちらも先祖をまつる神事であって、共通点が多い。盆の魂祭りの方は中国伝来の盂蘭盆会と結合して仏事となったが、民間の年中行事になったのは室町時代以降のことという。もともとは亡くなった霊が餓鬼世界で彷徨い苦しんでいると、現世への思いがわざわいを起こさないとも限らないため、その苦しんでいる霊を救おうとして供養される行事である。ようは亡き霊を懐かしむことになるものの、彷徨っている霊に早く仏の世界に行ってもらうように現世の人たちも手助けをしなくてはならないのである。現代人に照らし合わせればこう考えたらどうだろう。日々の日常に負われ、亡き人を忘れていると、彷徨った霊は「もうわたしのことを忘れている。亡くなったことを喜んでいる」とひがんで現世に戻りわるさをする。現世の者にとってはそんな霊を恐れることにもなりかねない。そうしないためにも盆に迎え、「けして忘れていないからどうぞ家に帰ってください」とばかりにご馳走を用意して供養するわけである。いっぽう亡くなった人を思いすぎてなかなかその思いから逃れられない人も多い。改めて盆という季節に迎えずとも毎日のようにそばに霊がいついてしまうなどいうこともないとは限らない。いつまでも彷徨っているわけにはいかない霊にとっては、盆に迎えてもらい、そして送ってもらうことで「わたしは旅立ちます」と確認できるわけである。そういう意味では常にそばにいてほしいと思っている人は、盆という行事が不要ということになるかもしれない。いつまでも霊の状態で彷徨うことになるべく。

 盆も正月もどちらも祖先をまつる神事だったというが、現代では正月は消滅しつつあり、盆は継続しそうである。正月は単純に年が改まる時という印象になりつつある。小正月の衰退がその原因でもあるが、小正月は農正月と言われるように農業と関わる部分が多い。農業の衰退=正月の衰退という構造なのかもしれない。いっぽう盆には盆であるが故の行事が拡大されて残っている。夏の祭り多くは魂祭り的な要素を含む。かつては同じような二つの季節は今では正月<盆という形になりつつあるのかもしれない。
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