Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

盆を思う②

2009-08-21 12:34:38 | つぶやき
 先般盆棚を新盆でなければ作らなくなったと言ったが、あくまでもわたしの記憶ではそう思えたわけであって、かつては必ず盆に棚を作っていたわけではない(棚という概念もさまざまで多様であるということは承知している)。『大河原の民俗』(S49.大鹿村教育委員会)によると、「新盆の家のみが盆棚を作り、一般の家では仏壇をそのまま利用する」とある。わたしの生家では記憶にある時期からずっと新盆でなくとも盆棚を作っていたもので、わたしはそういうものなのだと思っていたが、必ずしもそうではないということがわかる。供えられるものも新盆に限らずほとんど変わりなかったが、新しい仏様を迎えることが少なくなった現代では、むしろ新盆の時だけ意識するとなると、その作法も忘れてしまいがちである。だからこそマニュアルが必要ということになるのかもしれない。そういう意味では民俗誌に記された「盆」の項は大事な部分であるのだろう。

 仏様はお墓から迎えてくるという。盆の間は墓参りをしても空っぽだから無意味なことということを教えられた。仏教で葬式をあげればそれなりに墓もあって供養をすることになるのだろうが、果たしてこのあたりのストーリーはどうなっていくことだろう。例えばわが家のように「墓はいらない」と言っていると盆月に入っても墓そうじが必要ないのか。そしてなにより13日の夕方が近づくと仏様を迎えに墓に行ったものであるが、どこへ迎えに行くことになるのだろう。当たり前のように盆を迎え、当たり前のように送っているが、わが家でもいずれはそんなとまどいの時を迎えることになるのだろう。もちろんそれは分家したわが家にとって初めて死者が出たときのことであって、普通に考えればわたしが知らないところの話になるはず。わたしはそんなとまどいもなく、この世を去ることになるわけだ。あくまでも順番に逝ったらということではあるが。

 前述の『大河原の民俗』によれば、「下青木ではウラボン・ウラドムライということをする。これは位牌を分ける習俗と関係があり、たとえば、嫁の実家の親が死ぬと、嫁も位牌を分けてもらってくる。そして嫁が嫁いだ先、いわゆる婚家でも、その年は新盆と同じように盆棚を作って飾り、親戚・組合がボンミマイに来てくれる」と言う。嫁に対しての大変な気遣いであって、ここまでしてもらえば嫁いだ後も両家は密接にかかわっていくことだろう。この方式に則れば分家した家でもその家から死者が出なくとも位牌を所有することになる。この場合の位牌がふだん仏壇という特定の場所に収められなくとも、盆には棚を設けて供養されるということになるのだろうか。そこまでの記述は見られない。位牌を分けるという習俗は長野県内では佐久に顕著のようであるが、このあたりではあまり聞かない。それでも時おり「位牌を分けてもらった」ということを聞くことはある。下青木のようなところならともかく、嫁いだ先で分けられた位牌をどうしているのか、などと心配する。もちろん下青木の事例でもふだん位牌の収納についての記述はないわけで、婚家の仏壇に並べられているのだろうか。

 さて生家での仏様迎えはこうだった。明るいうちに墓地に家族で迎えに行く。麦からで迎え火を墓地で焚き、家に帰ると砂盛りをした上で同じように麦からで迎え火を焚く。このとき仏様に旅の疲れをとってもらうよう風呂の蓋を開けておく。というようなものであった。盆の間は家族が多くなったような錯覚を覚えるのは、来客があるばかりではなく「迎える」という気持ちがそこにあるからなのだろう。当然のこと身のまわりは綺麗に、そして当然のことであるがこの日の風呂は新しい湯が張られる。
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