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旧丸子町西内の自然石道祖神・外編

2024-06-01 23:57:59 | 民俗学

 正月に道祖神の獅子舞を訪れるにあたって、昨年末に「高遠町山室の獅子舞」を記し、「正月の獅子舞」という地図を示した。ここに「二月八日の道祖神獅子舞」という記号があり、その記号が落とされた場所が東信地域に3箇所あった。その松本市よりにある記号の場所が昨日まで記してきた旧丸子町西内である。『丸子町誌民俗編』(丸子町誌編纂委員会 平成4年)によると、丸子地域の道祖神の祭りは、二月初めのわら馬引きや厄払いに関連したものに重きが置かれているという。その中で、「西内でも、道祖神に小屋掛けをして仮宮をつくり、猿田彦大神・今月今晩と書いた灯籠に火を入れて、二人ぐらいで籠り、道行く人に参詣をすすめ、お神酒や甘茶を出してきた」という。町域の多くの地域で「小屋掛け」というスタイルの祭りが実施されていたようだ。ただし、松本でもよき耳にする話であるが、「焼死事件があって後、小屋泊りの習慣は全面的に禁止」されたよう。

 さて、昭和55年に発行された『長野県民俗の会通信』36号へ。酒井亻玄(もとる)氏が「丸子町西内地区の道祖神祭り」を報告している。西内に限らずもともと2月8日に行われていた祭りは、寒中休みにその祭りは移行していったようで、酒井氏も西内では寒中休みに行われた祭りを報告している。小学生の男女が祭りに参加するが、元々は男の子のみの祭りだったよう。さらにはいわゆる子供組の行事てあったことから、その昔は小学生に加えてかつての高等科の子ども達も加わっていた。そしてその祭りの主たる内容は①お札の配布、②獅子舞、③ウマヒキだっという。馬引きについては、真田町の祭りがよく知られているが、東信地域広域で、どこでも行われていた行事であったもので、さらにはそれは東信のみのものではなく、もっと広域に行われていたものである。

 小屋掛けをし、見張りを立て道行く人々にお詣りを請うというのも当たり前にあったようで、お賽銭をするようにせがんだとも。道祖神祭りにおける「通せんぼ」の話は松本あたりでも耳にしたかつての習俗で、子どもたちが行う祭り、もっといえば子どもたちに限らず祭りにおいて賽銭を請うために「通せんぼ」をしたという話は、わたしの住んでいる地域でもかつてはあったと聞いたことがある。典型的な光景の記憶がある。福井県小浜市での地蔵盆である。道端で「マインテンノー、マイテンノー」というのは参って欲しいという意図である。久しく小浜を訪れていないが、今も地蔵盆は行われているのではないだろうか。

 獅子舞では戸毎に集落境から集落境にかけて回っていくという。家に上がると部屋の中を左回りに2回まわって、3回目に家の人の頭を噛むという。これらは南佐久地方の子どもたちの獅子舞と同じである。

 西内の自然石道祖神について触れてきたところだが、酒井氏もこの自然石道祖神について触れている。「すべての石が神の依り代ないし御神体とされるのではなく、形、模様、色などになんらかの特徴を持つ石が選ばている」という。そして「内村川の上流にこの石が産出する場所がある」という。さらに「小形の溶岩の道祖神は、東部町祢津、滋野、武石村小沢根にも祀られている。これらの地区にあるのは遠方から算出されたものではなく、自分たちのムラから出た石を祀っているようにも思える」と述べている。このことから西内の道祖神を回った際に内村川の様子をうかがったが、溶岩が河川内にごろごろしているという風でもない。果たしてこのゴツゴツした石がどこから供給されたのか、この点についても注意深く探ってみたい。

参考 表層地質図


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