Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

空間で生きられる制限

2009-08-20 17:37:25 | 農村環境
 理学博士の瀬戸昌之氏は生活クラブ事業連合生活協同組合連合会の「生活と自治」8月号において「入会地の悲劇」のことに触れている。「100頭の牛が飼える草地で10人が10頭ずつ飼っている。そのうちの一人が牛を11顔に増やすと、1頭分の過放牧による草地への悪影響が生じるが、それは10人で分かち合うことになる。つまり彼は1頭分の利益を独占し、不利益は10分の1。みんなが競ってより多くの牛を飼い、やがて草地は崩壊する」というものである。これはわたしたちの住む空間には共有のものがあり、その共有のものは平等に利用して収益を得る財だという例えで利用されたものである。歴史の中では入会地をめぐっての争論は絶えなかったわけで、共有といってもその境界域は伸縮性があったために争論も起きやすかったともいえる。かつての入会地であっても「入会地の悲劇」のようなことは必然的に起きえたことなのだろうが、そのためにムラの掟が設けられて、強いてはムラ八分というものも生まれたわけである。ムラ八分はけして虐めではなくムラの秩序を守るための救いのある制裁だったといえ、現代にイメージされるものとは異なるだろう。

 公共域の拡大は今のわたしたちの空間と意識をとても大きなものに変えてしまったことは事実で、ムラというものが狭い領分であればそれぞれが狭い領域で相互に干渉可能だったはず。境のない空間の公共意識はかつてのヨソのムラであっても今では公共域ということになるわけで、どこでも誰にでもその公共空間は利用可能なのである。今でも風習として残る送りの行事。例えば飯田市の天竜川東岸で2月のこと八日近辺に行なわれる「風邪の神送り」は、狭い領分である現在の集落単位で神送りをし、隣ムラ境に悪い神様を送っていくのである。たまたまここでは送り継がれているが村境に送る、あるいは捨てるという意識の連続性であって、ムラ内から外へ出すという意識共通する。送る場所は公共域であって、かつムラ内ではないというところに意味がある。時代は変わりとてつもなく大きな行政区域になっても、こうしたかつての狭い領分が意識されているのは山間部ほど強いといえる。公共空間の拡大とともに、かつての領分ではなくもっと広い公共空間を意識して送るようにならなかったのが救いでもある。ところがこれはあくまでも神という実在しない、とくに自らに災いが起きたとしてもその行為の災いだと証明できることではないから変化を伴わなかったわけで、現実的な益に被ることであれば、どれほど伝統的なものであっても、その境界域は変化を遂げていったに違いないわけである。

 神送りはかつてのムラ内で了解するが、廃棄物はできることならよそへ捨てたい。この意識の典型的なものが廃棄物処理場や汚水処理場建設に対する反対運動である。そもそも狭い領分で相互で干渉しなくてはならなければ了解できることが、空間の広がりでその反対運動は比例して大きくなってしまう。不思議なもので、公共性というものを利用して人々は自らの益だけを計算するようになったわけである。瀬戸氏は「工場からの水銀やカドミウムなどを含む排水、亜硫酸ガスなどを含む排煙のタレ流しは、河川や地下水、大気などの入会地を破壊します。ところが、タレ流しで〝節減″した処理費による利益はその工場が独占します」と例える。公共域は自然界の循環作用を持ちえているから、その自然界という公共域を独占して利用する人々は、入会地で例えたところの過放牧にあたるわけである。公共性とはあくまでも平等に利用できるものであって、さらには秩序ある平等が唱えられなくてはならないのだが、現実的にはそれが認められなくなったのは、やはり公共域の拡大という意識から始まったものではないだろうか。
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