Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

高貴な女たちの無言

2009-08-27 12:38:53 | ひとから学ぶ
 ある会社の窓口で来客者の応対をする女性は、窓口というだけで外向けの顔になる。そして愛想よく言葉を交わし、また挨拶をする。その女性に帰り際の道端で出会ったが、彼女は同じ会社にいる友と2人連れで歩いていた。会話をしているからこちらに気がつかないということもあるのかもしれないが、ほとんどこちらに目をやることもなく通り過ぎていった。「お疲れ様でした」という言葉が交わされなくとも、会釈程度はあってもまよいことなのだが、窓口で対応している女性とは少しばかり顔つきは異なっていた。あたかも気がつかないように通り過ぎていった理由を考えると、こちらが汚い恰好をしていたことが関係あるだろうか。そして友とともに歩いていることもその恰好とかかわりながら「こんな人は無関係」との表現にたどり着いたのだろうか。

 彼女たちは正規雇用者ではない。しかしどこかその表情に苦しさはにじみ出ず、余裕さえ感じる。時代は正規雇用者と非正規雇用者の雇用条件差の縮小を考えている。確かにすれすれのところで生活する人たちにとってはこの差の縮小は望むところである。しかしよく考えてみると、それほど稼がなくても良い人たちがいないわけではない。どれほどの比率でそうした人たちがいるかは知らないが、例えば彼女たちの高貴さにはどこかそんなものは影響のない時限のように見えたりする。労働の対価には当然差のあものではない。しかし、例えば医者が1時間働くのと、コンビニのレジをに立つのでは明らかに対価差が生じる。わたしたちは働くことの対価を何に基準を置くのかということ考えずにはその差を縮めるといっても労働差は解消されない。もちろん同じ仕事をしても差があるという意見がちまたには広がっている。そこには正規採用か非正規採用かの違いだけ。しかし、そもそも将来を見越して会社の人員を確実な計算の上で雇うことは不可能である。大会社であって業務が多様であれば人員を操作できるだろうが、小さな会社ではそれは不可能である。雇ったら面倒を見ろと言われるのなら採用に抵抗感がわく。簡単に首が切れる存在が制度上あるのなら、そこに頼らざるを得ないのはごく自然なことむ。とすればそれを補う方法が何なのかということになるのであって、非正規雇用者の正規化という考えは雇用されている側に立ちすぎた視点であることは否めない。

 ちまたでは「責任力」というわけの解らない言葉を掲げる人たちがいる。責任の力とは何を意味するのか。そもそもイメージし難い。問題があっても「わたしたちは責任を取る」とでも言うのだろうか。公の場が人が責任転嫁をしてきたことはごく当たり前のように記憶にある。彼らには後々の仕事に影響がないことを重視する。したがって前例に倣うという常識ができるし、むやみに頭を下げることができない。もうずいぶん前のことであるが、飯田市川路において治水対策として天竜川の脇にある広大な土地が盤上げされる工事が行なわれた。中部電力の責任ある立場の人がかつて地元と約束文書のようなものを交わしていたために、その洪水の要因がダムにあると認めることになって責任ある負担をした。ごく自然のようななりゆきであっても、「なぜそんな取り交わしをしたのか」という疑いがどこかにあった。公に限らずそう思わされる苦い経験で、人は一時の出来事に簡単な対応や判断ができない。それもよく解ることである。どこぞでは訴訟の場に登場して人々の同乗をかった女性が総選挙に立った。人として当たり前の政治が行なわれるとしたら、全ての人の訴えに国は責任を負っていくことになる。もちろん国だけではなく地方の役所も、また民間も。そんなうまい具合の社会になったとして、人はますますその基準に悩まされることになるだろう。

 政治の転換がやってくるさ中で右往左往して、いずれはその変化に撃沈するであろう会社で悩み続けるわが身には、すずしげに通り過ぎた彼女たちの後姿が、とても大きく感じた。
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