Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

彼女たちに見る生活差

2009-08-26 17:34:51 | ひとから学ぶ
 電車内の高校生には仲間ごとのグループがあれば、いつも一人でいる子どももいたりしてさまざまであることは言うまでもない。たった2、3両の中に閉じ込められているのだから、いくつかの印象的な子どもたちのグループは記憶に残る。もちろんそうした顔も年々変わっていくことになるが、そこには意外と変化のない風景があったりする。

 いつも電車に乗ってくると勉強のために本を広げるある女の子のグループ。グループといっても集団を形成しているだけで彼女たちが会話を交わすことはそれほどない。ひたすら勉強しているのだから当然のこととなるが、それでもそのグループのメンバーが変わることはない。一人の女の子がこんなことを口にした。「あの陸上競技場で世界陸上が始まる前にサッカーを見ていた」と。ベルリンの世界陸上はつい先日終わった。彼女はきっと夏休みの間家族なのだろうがベルリンを訪れていたということなのだろう。この言葉に続く若干の説明はあったが、この言葉を口にした彼女の上機嫌さにくらべるとその場に居合わせたメンバーの反応はほとんど無かった。その沈黙ののちも彼女らは勉強のためにうつむいていたから続く反応も確認はできなかったし、その後誰も言葉を続けなかったからその言葉がどう彼女らに漂ったのかも解らない。

 彼女たちは地域の進学校に通うグループである。身なりもきちっとしていて、服装も所有しているものも安物という雰囲気はない。彼女たちはこの地域では裕福な家庭の子どもたちと言えるのかもしれない。もちろんわたしの外見から感じる推定にすぎないが、ミニスカートでたち膝をしているきままな子どもたちとは明らかに別の空間を作り、そして彼女たちの間でもそれぞれの自分を描いている。一度も外国に足を運んだこともないわたしにはまったく別世界の彼女たちの世界、果たして言葉の先に「へーすごいね、ベルリンに行っていたの」という空気があったのか、それとも「ここでそういうこと言うの」という空気があったのか、わたしにはその先は想定できなかった。子どもたちの境遇に差があって当然のことである。ただし彼女たちの姿を見ていると、中学までは同じ色に見えていた姿が、高校という義務を離れた空間で、家の内情をうかがい知ることができる姿に変化していくことのだと思うのである。けしてそれを格差とは言わない。高齢化やさまざまな人間病に遭遇し、何事もなく平和に暮らせている家庭は少ないのかもしれない。いやその逆で不遇な暮らしに追われている人の方が少ないのかもしれない。外見だけではなかなか判断は容易ではない。自らの暮らし向きをどの位置に置いているか、あるいは感じているかによって不満の量は異なる。子ども手当てと言う支援が今後実現したとしよう。裕福な彼女たちには、さらにお小遣いが渡され、生活に苦しい彼女たちには大人たちの生活の糧となって潤う。外見でしか見えない、そして隣の財布が見えなくなったこの社会で、本当の意味で同じ益を被ることなどできないのに、わたしたちは政治に何かを頼ろうとしている。

 今日もまた、彼女たちがこの空間にやってくる。
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