Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

商い

2009-08-24 23:52:50 | 民俗学
 中崎隆生氏は長野県民俗の会第167回例会において辰野町のある和服商いを営んだ方の話を報告された。もともとは染色業をされていたというその方は、祖祖父の代から木曽谷へ和服の商いにでかけるようになったという。染色業とはいっても法被や暖簾などの染色程度で、和服の染色は京都に依頼したという。和服の染色の依頼を受けるというあたりから和服商へ手を出していったようで、その相手先である木曽で広範な商いができるようになると、しだいにその業に専念していった様子である。そもそもなぜ木曽だったのかということになるが、たまたま木曽平沢に縁があって始めたものが、きっと木曽谷にはそういう商いをする人がいなかった、あるいは少なかったことで商売が根付いていったようである。南は大桑村の野尻まで商いをしたというのだから木曽谷のほぼ全域である。地元の立つのでも少しは依頼されることはあっても主体は木曽谷だったという。その理由を中崎氏は晴れ着に代表されるような和服を作るには地元の商店よりはより外向きな商店、ようはよその地域の商店に足を運ぶのではないかと言うのである。この意識は確かに頷けるものであって、いわゆるマチを目当てにサトの者が買い物に出かけるのはそういう意識が少なからずあるはず。もちろん地元に店がなければ致し方ないことであるが、地元に商っている店があってもよそへわざわざでかける真意は、地元ではない物への憧れのようなものもあるわけだ。それを証明するように時代は小さな町の商店を廃業に追い込んでいった。最期に残るのはどこで買ってもそれほど変わりばいのしない商品を扱う店。そして値段にそれほど差が無い物や小額な物、そして毎日利用するものという具合になっていいく。そうした代表的な店はタバコ店といえるだろう。地域が廃れていく原点に人々のそうした意識があることも事実なのである。

 さてこの和服商が木曽に通じた理由に鉄道がある。明治末期に祖祖父が始めてから三代約90年に渡る商い。その歴史は交通と大きく関わってくる。中央西線の全線開通が明治44年のことという。牛首峠越えをして歩いていったわけではないというから、中央西線の開通がこの商いの始まりを告げる。風呂敷に見本品の反物を10本ほど持って木曽へ向かう。見本品の反物はロール状になっているものの、いくつもの布を紙芝居風につないであるものだったという。この見本品で注文を受け、京都の染色店に依頼する。その後道路の発達とともに鉄道からモーターバイクへと変わり、今の自動車へと変遷する。昭和30年、鳥居トンネルの開通とともに商いは南へと下っていく。国道19号が全線舗装されたのは昭和41年のこと。自動車を利用するようになると反物の見本を大量に持って商いするようになる。そして反物の量が増えることで見本を広げるスペースが必要となる。それまでは戸々の家を回っていたものを展示場を設けてそこで見本を広げるという具合に変化する。そして広告を新聞に折り込むようになってしだいに商いは大規模化していく。広範なエリアで商うようになると当然宿泊して商いをするのだが、道路事情が良くなるとともに、平成以降は宿泊をしなくなる。和服のニーズが下がるいっぽう、他に商う広域的な業者が登場し、10年ほど前に90年ほど続いた商いに終止符を打った。商いは変化の連続である。長い時間同じものを商う店は稀な例といえる。ニーズにより一層敏感なだけに、変化は激しい。一定の地域に長年足を運んだだけに、その地域のことは姻戚関係から家と家の関係まで詳しくなる。さまざまな思いが商いの実績に横たわっていることだろう。
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