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旧丸子町西内の自然石道祖神⑤(前編まとめ)

2024-05-31 23:38:39 | 民俗学

旧丸子町西内の自然石道祖神④より

 

 

 宮沢が西内の最も下流にある集落であり、上流域から内村川を下りながら道祖神らしきものを探した。この地域では、公民館の庭に祀られているケースが多く、そういう意味では探しやすかったとも言える。ようは人々の集まりやすい場所に道祖神は祀られており、集落空間の中では中心部に祀られているということになる。そしてそれらがほぼすべて自然石。それも複数祀られていて、いわゆる双体道祖神や文字碑の道祖神のように、数を勘定することは不可能に近い。そもそも道祖神の「数」という概念をここに取り入れると、同じ土俵では語られなくなる。このことは福澤昭司氏も指摘していることだが、もちろん上伊那における自然石道祖神も同様であり、本日記でも指摘してきたこと。東信地域の道祖神を「西内」という一地域で捉えてそう感じたわけで、広く見ていくと、この思いはますます膨らんでいくだろう。

 ここに『長野県道祖神碑一覧』(長野県民俗の会 2018年)に掲載された西内分の一覧をあらためて一覧化した。13箇所15基の道祖神が引用した小林大二氏『小県郡 依田窪の道祖神』(丸子山岳会 1972年)に記載されている。同書では番号を付しており、さの番号が一覧左端の数字である。同じところに2基大きさを示している例は別の道祖神として『長野県道祖神碑一覧』では取り上げているが、そもそも西内の道祖神をこれまで見て来て、1箇所に1基しかない例は、鹿教湯温泉の例だろうか。しかしそれももしかしたら周囲に添えられている石を別物として数えると一つなのかどうかはっきりしないが、概観した印象では1基と勘定しても良いのだろう。それ以外の道祖神は、すべて複数である。したがって前述したように、たまたま小林氏が『小県郡 依田窪の道祖神』を刊行するにあたり1箇所に複数示した例はあるものの、これはあくまでも明確な勘定とはいえず。祭祀箇所数となると、13箇所であり、基数は明示されていないと捉えた方が良いのだろう。小林氏の報告では、祭祀箇所数と基数の一覧表が示されていないため、数値的信頼度は低いと思われる。そうしたなか、「旧丸子町西内の自然石道祖神①」において、小林氏の示した自然石道祖神の割合を示した表を提示した。そこには西内において、自然石のみが11、文字碑等との併祀が1とあり、ここに示した一覧でいうと、霊泉寺の例が後者にあたると思われる。とすると霊泉寺では自然石と併祀されているということになるが、まだ現地で確認していないため、はっきりしたことはここでは言えない。いっぽう自然石のみの11であるが、ここに示した一覧ではどう勘定しても11(箇所)ある。したがって数が合わない(総数13箇所あるように見える)。あえていえば石祠の祀られている2番を外せば11箇所となり整合するが、小林氏の写真を見るかぎり、石祠に併祀されて自然石も祀られていると思われる。実はこの宮沢の石祠も現地で確認してないため、はっきりしたことは言えない。

 さて、ここまで西内の7箇所の道祖神について紹介してきた(一覧の網掛部)。実はその数とこの一覧共整合しない。これまで穴澤の道祖神は2箇所のものを取り上げた。しかし一覧には1箇所しか記載されていない。福澤昭司氏は「自然石道祖神」(『長野県民俗の会通信』258)において穴澤には2か所に祀られていると報告しており、確かに穴澤には2箇所ある。したがってこの一覧とは少し異なる、あるいはかつては1箇所に祀られていたものが、2箇所に分けて祀られるようになった、という想像もできる。いずれにしても確認できていない地区の道祖神を調べてみる必要性にかられるとともに、周辺地域への思いも募る。

 なお、西内にあっ小学校がこの春に統合されて廃校となった。穴澤で聞いたところ、ここでも二月八日ころ道祖神の祭りが行われていたようだが、「来年はどうですか」と聞くと小学校がなくなったから道祖神の祭りはどうなるか?、という感想が聞こえた。すぐそこに小学校があったこともあり、この地区の道祖神の祭りは小学校のおひざ元であったが故にこれまで引き継がれてきたが、今後を危惧する言葉であった。できればこの地域に伝わる道祖神の祭を、訪れて実見してみたいとも思っている。

前編終わり(西内の道祖神について、再訪した後に後編を記したい)


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