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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

『栄村東部谷の民俗』を概観して

2024-05-29 23:26:04 | ひとから学ぶ

 「意外と文字化されていない事実」で触れた埼玉大学文化人類学研究会が1992年に発行した『栄村東部谷の民俗』を確認してみた。「志久見川沿いの集落景観」で触れた集落ごとのお堂の存在についての記述を求めたわけであるが、民俗学を専攻されている学生たちの目にどのように映ったのかが知りたかった。「東部谷」と銘打っている「谷」は志久見川の谷に当る。ただ調査されたのは北から志久見、長瀬、北野、極野の4集落であり、今回わたしが志久見川を下りながら概観した全ての集落に渡っていたわけではなく、代表的な集落をピックアップしたということになる。したがって「どこの集落にもある堂」という視点はそこにはないものの、それぞれの集落についてそれぞれの堂の記述がされていて興味深い。4集落ごと第1章において「概要」を示しており、その中で県道を南へ川を遡る形で概観している。そこには堂の存在がルート上のどこにあるか記載されているが、それと現在の地図(グーグルマップや国土地理院の地図)を対比して遡上しても、どの堂なのかはっきり今となっては分からない部分もある。ただ、かなり詳細に記述されているので、本書を参照しながら、集落を実地で遡ってみると良いのかもしれない。何より本書には集落図が記載されており、ありがたい。その集落図と現在の集落をグーグルマップで対比すると、家の数がかなり減少していることに気づく。その上で「志久見」の第1章概要に記されている「薬師」といわれる字名のあたりが柳在家との境界になり、そこには薬師堂があるというのだが、わたしが現地で県道を北へ下りながらの視線に薬師堂は目に入らなかった。どこにそれがあったのか、これもまた宿題である。そもそも「第四節 堂宇・小祠」の中には十王堂は登場するが薬師堂は見えない。記載間違いなのかどうかも含めて、あらためて現地踏査が必要なのだろう。

 集落内において堂の存在、あるいはかかわりについてどうなのか、という面においても読み込むと見えてくるのだろうが、地図と文章を対比しながら再確認してみようと思う。本書を概観した中で気づくのは、どの集落にも「修験」が登場することである。ホウインサマとかホウゲンサマと呼ばれる人たちで他地区に住まうそれらの人を頼り、様々な場面で依頼していたようである。新築の際のジマツリや新年のカドツケなどお祓いと言えばそうした修験にかかわる方に来てもらっていたようだ。その中で、新年になって行われるヒマチはどこの集落でも行われていたようだ。このヒマチ、我が家の近辺でもオヒマチと称して行われていたもので、それらは修験者が担っていた。いまでこそ修験者の存在は薄くなっているが、かつてはどこでも修験者とのかかわりがあったのではないかと想像する。

 また、葬送の記述ではかつての葬儀の様子が詳細に記されており、現在もうかがえるように、お堂のある墓地において引導が渡され、そのお堂には葬送道具が保管されていた様子が見える。単純にお堂といっても、集落に複数のお堂があるところもあり、役割があったようにもうかがえる。いずれにしてもそれほど戸数の多くない集落において、自ら管理するお堂を持ち(これらは寺の管理するものではない)、そこを中心に人々がかかわり、暮らしていた様子がうかがえ、本書は志久見川沿いの人々のかつての暮らしを、そして現在の姿と対比しながら見るには大変参考になる書であることに間違いはない。


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