Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

教員へのまなざし

2009-08-10 12:16:55 | つぶやき
 8/9付信濃毎日新聞朝刊の教育欄「コンパス」において、早稲田大学の喜多明人氏が「教員免許更新制の導入」について触れている。担当するある科目の受講生193人に「教員免許更新制度に関するアンケート」を実施し、「いま、教職を志望しているか」という間いをしたという。それに対してかつて教職に着こうとしていた学生が、今はその考えを変えたという生徒が多いという。さらにその変えた理由について質問すると、他の職に魅力があるからという答えに次いで多かったのが「員免許更新制度で安定した職業とはいえなくなったから」というものだったという。喜多氏もサンプル数から一般的傾向とはいえないが、教職志望意識の変化がそこから伺えると言っている。おそらくこの意識がまだ実際の教職採用という場面では表れていないかもしれないが、この教員免許更新制が少なからず影を落としていくという印象はある。先ごろ行なわれた長野県教員採用試験の競争率は不況も反映して高い数値を示した。いわゆる正規採用ではなく、現場で臨採として働きながら正規職を目指している人たちも多い。それほど高いハードルでありながら、実際の現場にはどうみても「使えない」教員がいるだろうし、めまぐるしく変化する教職現場にはなかなか対応し切れていないという教員自らの思いもあるだろう。堅い世界だけに、その世界を知らないわたしたちには想像できないような現実があるのだろう。

 教員というハードな仕事に従事し、若くして脳梗塞に倒れた身内がいる。間もなく現場復帰というものの、半年ほど経過した今も頭痛やめまいに悩まされている。順調にゆけば段階を踏んでいたのだろうに、真摯にその職をまっとうしたが故にわたしよりはるかに健康そうだったのに病に倒れた。荒れぎみの市部の学校で長年中心的に働いてきたのに、彼が倒れようと日々の学校は何事もなく過ぎていく。それを吸収するだけの「何か」がある以上、真摯に人一倍働くのも自らの命を縮めることになる。しかしそこに計れない人のこころと相手に対しての思いが働く。結果論として自ら損を被ってしまったが、人生に躓いたわけではないと、本人は思うことだろう。しかし周囲は違う。これもまた人のこころの表れなのである。

 「人はわたしのことを教員をしながら民俗学という趣味をしていると思っているが、わたしは民俗学者が教員という仮の姿をしていると考えている」と知人は言った。教員と言う場面にありながら気持ちの持ちようはさまざまだが、どう持っても真摯に全うすれば、教員という日々に自らは消されてしまう。それが仕事と割り切れるかどうなのか、ここもわたしには解らないことである。かつて教員を少しばかり視野に入れていた息子への思いも、今はまったく消えている。身内に教員がいるほどにその苦労が見えてくる。もはや教員を見る目は、子どものころから変わりつつあると言ってよいのだろう。そして教員免許更新制などというものがあっても、そのまなざしは変わりようがないのではないだろうか。
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