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盃状穴のある双体道祖神

2024-05-25 23:27:07 | 民俗学

松本市三才山小日向の道祖神

 

 昨日丸子へ向かう途中松本市三才山界隈をうろついたことについて触れた。三才山の手前(松本から見て)の小日向というところで、写真の道祖神を見てみた。自然石道祖神ではないが、双体像の彫ってある石そのものが変わっているということで本郷地区景観整備委員会がつい最近設けた説明板があった。そこには下記のように記されている。

小日向の多凹石の道祖神
 多凹石の神は、蜂の巣石、盃状穴とも云われ、道祖神石の頭部にある。この穴の発生は古代からで、再生・子宝・安産・豊作・病気平癒などを願って掘ったものとされ、庶民の呪術・土俗信仰を知る重要な民俗文化財である。
 この多凹石の双体道祖神は「文化十年(一八一三)年正月吉祥日」と江戸時代後期の銘を刻み古い道祖神であることを物語る。
 砂岩でできていると思われるが長い歳月を経て双体の像が風化し、村人が新しくはめ込み双体像を祀ったものであろう。この石の頭部には多凹石の神が連座し、今なお賽銭があがり祀られている。
令和六年三月吉日
本郷地区景観整備委員会

 ここで「多凹石」と明記しているが、「多凹石」という名称は発掘された石を対象にされたもののようで、検索すると縄文時代に由来する記事ばかり登場する。また、「多凹石の画像をすべて見る」を閲覧してもそれらしい発掘された石の写真が連続する。果たして説明板のタイトルとして適正なのか、と疑問がわく。この双体道祖神、説明板にあるように像が風化して形を留めなくなってしまったため、新たに像の部分だけ切り取って新調されている。現代の工場製品らしい雰囲気で、どことなく冷たさを覚えるがそれは仕方ない。石碑の銘文も今では読み取りにくくなっているが、「文化十癸酉歳 正月吉祥日」とある。1813年だから210年余というところ。それにしてはずいぶん摩耗してしまったようで、『松本の道祖神』(平成5年 松本市教育委員会)にある写真を拝借したものが下の写真である。30年前に既に像が消滅していたよう。本体の石がそれほど劣化していないのに、像だけこれほど摩耗したのには何らかの理由があったと思われる。ちなみに左側の大きな「道祖神」は大正7年建てられたもの。真ん中の小さな「道祖神」は個人名があることから個人建立とも言われるが、「天明五乙巳年」とあるから1785年と、この中では最も古い年号を示している。この文字碑と双体像の年代から違和感を覚えるのは当然かもしれない。「道祖神」の彫りこみは浅いのに、なぜ双体像はこうなってしまったのか。加えて個人造立と前掲書にもあるが、もともとかつての時代は個人が支配しているようなムラが多かった。背景については容易には断定できない。

『松本の道祖神』(平成5年 松本市教育委員会)93頁

 そして本題の「多凹石」のこと。写真でもわかるように碑の上部に加え、背面にも凹みがいくつも確認できる。「多凹石」が適正なのか、というのは、石碑造立は1800年代であり、縄文時代ではない。もともと凹みのあった石を利用したと言えなくもないが、おそらく建立された後につけられた凹みと捉える。以前「盃状穴 前編」で紹介した伊那市上新田の「道祖神」も同様に上部に凹みがあった。盃状穴についてはこれまでにも何度となく日記で記してきたので、それを参照してもらううとして、この手の盃状穴は子どもたちによってなされたもの、という印象がある。したがって説明板にはある程度過去の聞き取りを行った上で記載してほしかった。そう思うのは、新調された双体像についても「村人が新しくはめ込み双体像を祀ったものであろう」と推測しているからだ。まだ新しい像であるから、このことは聞き取れば背景は容易にわかったはず。このまま説明板が一人歩きしてしまうのは困るのだが…。


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