Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

小さな地域の行く末

2009-07-01 12:28:33 | 農村環境
 定額給付金も受け取ってしまえば特別なものでもなんでもない。すでにもらったことさえ記憶から遠ざかる。それがどれほど経済の活性化に至ったかは定かではないが、そのために事務処理の多くなった地方自治体の関係者は「大変でしたね」ということになる。国が何かをしようとしても直接国民と接するわけではないから、そこに介在する人々の労力が、そして対応の違いが浮き彫りになる。定額給付金の問い合わせをすることに対して「この電話代は出るのか」とか、役所に出向いて行く「ガソリン代は出るのか」といった質問もあったという。直接住民の声を聞くことになる役所には、定額給付金に限らず不思議な問い合わせがあるようだ。しかし、考えてみこれば役所の近くに住んでいる人と遠くに住んでいる人では定額とはいっても実際は差額が出ることにもなる。「それなら役所の近くに住めば良いではないか」という意見もあるだろうが、中央と周辺では時間に経費を与えて算出すれば、1年に大きな経費の差が出ることだろう。たまたま東京が首都であって、たまたま父島は同じ首都東京なのに遠い、という結果であるが、住民がその条件を選択したわけではない。にもかかわらず平等の声を上げれば、結局地方とくに人口密度の低いところは弱いというわけだ。税源の地方移譲を口にする地方リーダーたちが多くなった。地方だけではないだろう。東京なども同様に税源を国から都道府県へということを言う。しかし、そうすることによって結局は税収の多い地域はたくさんもらって少ない地域は少なくしかもらえず、それでもって国が手を差し伸べないとなれば、格差が生じる可能性は大きい。逆に言えば国がもっと適正な配分さえしていればこのような状況に陥らなかったものなのだろうが、財政難の中で、自治体はあらゆる手を使って自分こそはという策に出る。今や経済至上主義が役所の力関係に影を見せる。当然のことではあるが、合併して大きくなった市は実権を握る。千人の村が十万人の市と同等のことができるはずもない。

 とすれば同じことのできない小さな村はその大きさゆえに、違った道を進むしかないのだが、ところがそこには最低限の住民の暮らしというものがある。医師のいない村で病人が出たらどうするのか、とか火事や天災を被ったりしたらどうするのかということである。そういう意味で先ごろも触れた定住自立権構想というものが役割を果すことになるのだろうが、地域ごとの連携はそのような政策を施さなくても地域の中で何らかの策は練られるものであって、制約をかけてその政策の補助用件を作るのも自ら考えるという面では良い方向とは思えないわけだ。そもそも地域が分裂して枠を区切っているなかで、こうした施しをもって描かざるをえないというのも残念なものなのだ。住民の暮らしということを考えれば連携せざるをえないのに、いざ合併となると危機感を覚える。この関係の根底には「金」というベースがあるからだろう。わたしには解らないことではあるが、この関係の根底に地方自治の問題があるとわたしは思うのだが、その実は行政には詳しくないから解らない。いずれにしてもなぜこう一律に同じ方向を向かなくてはならないのか、また向いているのかというところは疑問だらけなのだ。定住自立権構想に反対している共産党の議員から「対等性」という言葉が出る。そもそも地域の中心市と周辺町村に対等な関係はない。日本人は序列社会に生きているから、かつて小さかった町が合併して大きくなれば、どれほど歴史のある市も序列からいけば新興勢力の下になる。多いこと大きいことという定量的な判断は、対等性という原則はあっても何につけ数字の大きい方からの選択となる。それを補うだけの自らの意思は強く持たなければならない時代なのである。
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