Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ドアを挟んでの攻防

2009-07-04 20:55:30 | ひとから学ぶ
 都会の混雑している電車に降車客より乗車客が先に乗る光景は見ない。それは混雑しているということもあるのだろうが、常識の世界である。何度もそんな愚痴をこぼしたかもしれないが、飯田線ではそれが違う。ドアが開くのを待って乗り込もうとしている人の多いこと。高校生ならほとんどが「先に乗っても良い」と思っているほどわれ先に状態である。最近はそんな行為を戒める意味の放送もされない。しつこいほどに同じことを繰り返し言うべきだと思う。高校生ばかりではなく、大人でも同様になる。ドアの向こう側に何人もの降車客がいるというのに、先に一歩を踏み込むのは乗車客という姿は常態化している。その理由にローカル線の列車のドアは自動には開かないというところにもある。ドアを開ける人は当然先に動くことになる。このドアを開けるのが外にいる者なのか内にいる者なのかというあたりが第一歩に影響していく。

 不思議なことなのだが、内にも外にも窓越しに顔が見えていると、ドアを誰が開けるか一瞬の間が生まれるものなのだ。それはそもそも手を掛ければ動かざるを得ないという身体に染み付いたドアと行動の関係が存在している。そしてこれもまた不思議なことなのだが、開き戸を手で開けるようにする列車と、ボタンを押して開ける列車があり、ボタンを押して開けるタイプの場合、必ずしも「開く」という指示を出したからといって身体は動き出さないのである。ようは自動ドアの感覚といって良いだろう。エレベーターが目的の階に着いたからといってすぐには開かない。自動ドアの場合は当然開くまでのタイムラグがあることを誰もが知っている。したがってボタンを押すのは必ずしも降りようとする人でなくても押すことはあるのである。ドアの近くに立っている人が、降りようとする人の代わりにボタンを押す、という行為は混雑している列車ではよくあるケースである。ところが手で開けるタイプで無関係の人が開けてやるということは見たことがない。もちろんドアは両開きであるから中央から開けるということになるから、おのずと脇に身体を寄せた人にはよほど「開ける」趣味のある人以外は起こさない行動である。

 以上踏まえると、ボタン式のドアの列車よりも手で開けるタイプの列車の方が降車客より乗車客が先に乗るケースが多くなるということになる。さらには「自動ドア」のことに照らし合わせれば、都会のように必ず自動に開く列車では開くまでの間が秩序を作っていっているのかもしれない。もともとは自動で開くなどということはなかったのに、この時代は不特定多数の人が行き来する場所は多くが自動化されてきた。それが人々の秩序を継続しているとすれば、不思議な現象といえるのだが、逆を言えば自ら行動を起こすことに対しては秩序が失われているということにもなる。たとえ行動をしたとしても、常識をしっかり認識していさえすれば、どちらが先にドアを開こうと、優先順位はそれに左右されないはずなのに。
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