Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

地域で働くことの意味

2009-07-31 12:19:18 | ひとから学ぶ
 先日に引き続いて生活クラブ事業連合生活協同組合連合会の生産者クローズアップの記事について触れる。古紙を扱っている新橋製紙の鈴木さんという方がクローズアップされている。鈴木さんは公害防止関連の会社には3年勤めたのち製紙会社に転職したが十数年後に倒産し、その後薬品会社の営業として働いたという。「でも、うだつは上がりませんでした。薬品を多く買ってもらうのが仕事なのですが、節約の方法を取引先に教えてしまうような営業だったのです」と言う。そこで転職したのが現在の新橋製紙だったという。わたしは営業という仕事をしたことがないが、この鈴木さんの言葉にその現場の本質が見て取れる。営業である以上仕事を取ってくることが求められる。したがって営業成績でしかその能力の判断はできない。自社で扱っている商品をどれだけ売り込んで気に入ってもらえるかということになるのだろうが、当然そうした製品に詳しいことになる。鈴木さんのように節約の方法を教えてしまうのも自ら持ちえている知識の営業であるがうえでのサービスなのかもしれないが、いっぽう売り上げは伸びない。経済至上主義が蔓延し、高品質低価格という意識が誰にもあれば、かつてのような継続的つきあいよりもそこには値段による取引関係が成り立つ。サービスが必ずしも相手に伝わらない「世の中になった」と思うのも束の間、すでにその意識も蔓延し、ごく当たり前な営業意識になる。しだいに騙しのようなやり取りがうかがえ、客もまたどう相手を信用するかという対応技術がそこには必要になる。ちまたで話題になるオレオレ詐欺なんていうのはそうした技術のいたちごっこのようなもの。強いてはプライベートな暮らしの中でもそうした技術が日常に必要になる。「暮らし難い」と言ってしまうのは簡単であるが、無駄口はもちろんのこと、他人とはなるべく関わらないにことしたことはないということにもなってしまう。よく人と人との関わりが薄くなったということが言われ、懐古するようにそれが必要だと説かれることが多いが、日常の暮らしがこうした環境にあって意識高くそれに対抗して構えていれば、もはやそんな懐古趣味に陥る言葉を吐くのも無意味なのかもしれない(もちろんわたしも同様の言葉を吐いているのだろうが)。

 限りなく儲けを求めたことがそうした甲者と乙者という立場にサービスが成り立たない姿を生んでいる。そもそも営業成績に追い込んでいけばそういう視点にならざるをえないのも解るが、そうではない視点が生きる方針を有する社会になって欲しいものである。ものには限度がある、あるいは身の丈の暮らし、そうした意識を持っていてはこのグローバル化の中では生き延びられない、という意識だけでもなんとかならないものだろうか。

 「新橋製紙は4年前、工場にそびえていた高さ38mの煙突とともに、ガスタンクを撤去した。これは紙をつくる時の燃料をLPGから都市ガスに切り換えることにより実現した。大気汚染物質の削減や、万が一の時のことを考えての決断」だという。東海地震に備えて従業員や近隣の安全を考えてのことという。「地域で働くことで次々と実践する」という考えが尊いとわたしは思う。
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