不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

病における差別の構造

2009-07-17 22:48:29 | 民俗学

 「なりんぼ」と検索して、その数はそれほど多くはない。そして検索された内容もここでいう「なりんぼ」を意味したものは数えるくらいである。たまたま差別に関したことに触れてきた。集落単位で差別された人たちを扱った被差別。いっぽう個人的あるいは家として蔑視された人たちにこの「なりんぼ」があった。今野大輔氏は『日本民俗学』256において「ハンセン病差別の民俗学的研究に向けて」と題して論文を掲載している。ハンセン病と言う病の患者が人々に目の当たりになったのはつい先ごろのことである。おおかたの人はその病そのものもをよく認識していなかっただろう。いわゆる平成13年にらい予防法違憲国家賠償請求訴訟がマスコミで大々的に取り上げられてからのことであろう、国民に広く知られるようになったのは。そしてそれを機にハンセン病からの回復者たちも報道上にのぼった。このハンセン病患者のことを「なりんぼ」ということをわたしは知らなかった。聞き取りをする上でもこの「なりんぼ」というものが登場するのだが、その伝承を口にした人の中にも「なりんぼ」とはどういうものを言うか知らない人もいたのである。わたしは以前義父に聞き取りを行なったものを生活暦としてまとめたことがあった。その中に「冬を越させて食べてはいけないといわれた。食べるとナリンボになるといわれた」とかぼちゃのことについて触れたものがあった。このナリンボがハンセン病のことであるということを、当時は知らなかったのである。

 今野氏は「民間伝承のなかに表れたらい病感こそが近代以降の政府による患者の強制隔離政策とともに、現代にまで続くハンセン病差別の原因であったと考えられる」と述べるとともに、同じように差別を受けていた結核とハンセン病を比較して、なぜハンセン病患者がこれほどまでに差別をうけてきたかについて解いている。ともに家筋に伝わる病として理解されていたものの、結核は感染力が強く死亡率の高い病気であったとともに誰にでも感染する可能性のある病気で希少性という面では当てはまらないいわゆるメジャーな病であったと言える。とはいえその死亡率が高いということから恐れられたわけであるが、結核に比べるとハンセン病は感染力がきわめて弱く、らい菌に感染したとしても病気が発症することはほとんどないといってよいという。さらに死に至る病ではなく、発症したとしてもハンセン病を直接的として死亡することはないともいう。にもかかわらず隔離されたというのだからこれ以上の差別はない。今野氏は論文の中で「患者のすべてを隔離するには適していない」という根拠に、結核の患者がハンセン病患者と比較にならないほど多かったということがある。近ごろ新型インフルエンザが話題になっ
た。当初の発症者は完全隔離であったものの、患者数が多くなると対応できなくなり、自宅待機的な状況に至った。隔離に奔走していたころには発症者に対してハンセン病並みの視線が浴びせられた。飯田で長野県内で初めて感染者が出たころには、ずいぶんな電話が保健所に寄せられたともいう。情けないことであるが、希少な異人に対しての視線のごとき捉えが、こんな山間の地域にもあることを改めて感じるのだ。今野氏は「新撰組の沖田総司をはじめ、文学作品に描かれる結核は、白い肌や突然の喀血などの鮮烈な色彩的イメージとともに、希望や才能を持つ若者の命を除々に蝕んでいくという儚を纏う。神仏の罰というイメージを持っていたハンセン病とは、大きく異なる病気のイメージである」という。希少性、そしてイメージ。まさに現代にも通じているわたしたちの根底にある蔑視感のようなものが見えてくる。「近現代におけるハンセン病差別の原因を、強制隔離政策にあると一元的に論じることは適当ではない。人々の日常生活における民間伝承のなかに如実に表れるらい病観の分析抜きにしては、差別の原因を明らかにすることは不可能である」と説く。ここに責任追及だけでは問題の解決にはならないということが示されるのである。

 ところでかぼちゃのことである。冬至にかぼちゃを食べれば病気にならないということはよく知られている。義父にも同じことを言われ、我が家でも今でも冬至かぼちゃは実践されている。しかしそのかぼちゃも冬を越させてはいけないという戒めなのである。それがハンセン病に例えられた背景はいかに。

コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****