Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

法則

2009-07-11 23:40:49 | ひとから学ぶ
 ボッケニャンドリさんは「通勤時間は短縮しない」と言う。「大昔は職場である山や畑には歩いて行ったのだろう。恐らく30分とか1時間かけて。やがて電車やバスが出来て歩かずに済むようになったけど勤務場所は畑ではなく工場。そして通勤時間はそのまま変らず30分とか1時間。新幹線通勤なんてのも出て来た。でも15分で行けるようになったかというとそうではない。在来線では時間がかかり過ぎて行けない所からの通勤なのでまたしても通勤時間は30分とか1時間で変らず。サラリーマンは電車が速くなっても関係無い」と通勤時間のことを解析する。ようは高速化したといっても通勤時間は変わらない、というものだ。都会では1時間なんていう通勤時間は当たり前で、2時間だって珍しくない。でも実は誰もがそうなわけではなく、中には15分で通える人たちだっているのだろう。しかしいずれにしても混雑を緩和しようとして策を施しても、ますます集中したりする。ということは予測が甘いということになるかもしれないが、人間は苦労を好まなくなった。「そんなの当たり前だろう」といわれればその通りなのだが、人間は本能的に自分に火の粉が舞ってくるようなことをしない。頭脳が高等化したのか、進化とでも言った方がよいのだろうか。

 合理的とか先進性というものは、つまるところ人間社会に紛れ込んでしまえば人間そのものの生活には変化を与えないということだろう。その要因は人間は悪知恵をいつまでも永久に考え続けているからだ。環境が変化してもそこに合わせるように違う種を植え付ける。だからそれまでなかった仕事が増えていく。この時代の構造はまさにそのとおりだろう。きっと知恵を持ったと錯覚しているだけなのかもしれない。「通勤における法則」とボッケさんは解いたが、通勤に限らず人間社会の法則なのかもしれない。何が正しいか答えが出せない政治のように、またそれに翻弄されてあたかもこれが正解と思われる評論を耳にしながら惑わされる。確かなるものと思われながらもそうでない。例えば6ヵ月前に麻生総理を選出した自民党議員が、世間の顔色を見て「降りろ」と合唱するあたり、結論的には何が正しいか自らが理解していないということに違いない。その原因が道半ばに放り出してきた「首相」という座に着いた人々の無責任でも何でもない。何が正しいか見出せていないこの社会の問題なのだ。

 ところで電化されていない路線沿線では一般的に「汽車」と呼ぶ。どれほど時代が進んでも、さらには「汽車」など走っていなくとも「汽車」と呼ぶ意識がとてもいい。そういえば飯山線沿線でもそう呼ぶ。飯山に暮らすようになってこの「汽車」という言葉を聞くようになってはじめはとても違和感があった。もともと電化されて開通した飯田線沿線に暮らした者には、何をもって「汽車」なのかさっぱり解らなかったのだ。人は暮らしの中でイメージしたものを積み重ねていく。当たり前のようで当たり前ではないこと、それがそれぞれの人の暮らしなのだ。
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