Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「止まる」という意思表示

2009-07-07 12:33:50 | ひとから学ぶ
 「止まれ」の意味は奥深いものとわたしは思う。先日も踏切を突っ切ってから停まった車から高校生が降りてきた。電車の時間に間に合うようにと急いできた母親が、踏切で一旦停止もせずに突っ切ったわけだ。踏切などというものは停止しようとしまいと、警報機が鳴っているか、遮断機が下りているかどうかというあたりで容易に通ってよいかどうかの判断はできることである。とはいってもそれらが故障しているとも限らないわけで、そのために停止し、教習所的に言えば窓を開けて確認するわけだ。停止したとしても窓まで開けて確認する人は教習所ではともかくとして、一般道で拝見したことはない。

 踏切はともかくとして、では一般の道での「止まれ」はどうか。「止まれ」の停止線は一般的には交差点からは数メートル手前側に設置されている。この停止線を意識してその線を目安に「止まる」人はほとんどいない。おおかたは停止線を越えた交差点の間際で止まるケースとなる。そして当然のようにおまわりさんがいなければ、半数以上の車は止まらずに徐行程度で交差点を出て行く。正式にいえばこれは「止まれ」ではなく、おまわりさんが見ていれば切符を切られるのは致し方ない。それでも「止まれ」に対しては完全に止まった状態を維持していなくても捕まらないことも多い。そして「止まる」位置に対してはさらにおおらかなものだ。

 なぜ停止線は交差点より手前側に引かれているかということになるだろう。わたしも多くの人同様にほとんど徐行状態で交差点を抜けることがかつては多かった。しかし、最近は次のような理由で必ず停止線に止まろうという意識は持っている。必ずそうしているとは言い難いが意識は持っているというところで留めておくことにする。幅の広い道を走っていて、横から出てくる車にぶつけられた経験がかつてあった。こういうケースでは当然狭い道から出てくる方が分が悪いわけだが、ぶつかる際に「あの車、もしかしたらそのまま出てくるのでは」と思うことはよくある。それは停止するともしないとも曖昧な状態で動きながら交差点に入ってくるからである。本線側を走っている車は相手の意識を想定することになる。そこには「もしかしたら」という予想が生まれてくるわけで、とくに本線側の運転手にとってはそこに気を取られることで左前方、あるいは右前方に意識が集中する(とくに左側からやってくる車には意識が高まることは言うまでもないが)。ようは停止線に「止まる」ということはこのまま交差点内には入り込まないという意思表示なのである。本線側を走っている車に無用な注意を起こさせないこと、そして必ずこちらは一旦停止するという意志を表明するためにも停止線は明確な意志判断の機能を持つ。どれほど急いでいても、本線側に車が走っていればかならず停止するという意識を相手側に与えないと、相手が迷ったことで中途半端になって場合によってはブレーキをかけたことにより後方を走っている車が追突するなんていうこともありえない話ではないのである。急いでいても「止まる」意志は見せ、止まったらすぐに出るという方法はだらだらと徐行して交差点内に入り込んでいくよりは明確なはずである。
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