Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

山の変遷

2009-07-14 12:22:35 | 歴史から学ぶ
 北原由夫氏が長野日報の長期連載において「寂れゆく山里」と題して自らが生い立ちし村の変容を追憶している。7/11付同紙では「三義中が高遠中と統合」という見出しをもって学校の変容を述べている。見出しの統合が正確には昭和何年のことか記述の内容からは定かではない。そこでこの経過を追ってみる。

○義務教育となって新制中学が発足-昭和22年/建てられたのは山室の宮原である。建設場所をめぐっては山室に対し、荊口と芝平とが通学距離の公平性を期すようにと主張し難航したよう。
○宮原は小豆坂峠を介して藤沢谷の板山に隣接する。ようは藤沢谷とはもっとも近い位置にあるといってよい。この小豆坂にトンネル掘削計画化具体化し、開通したのは昭和28年。
○中学校舎の竣工は新学制となって4年余の昭和26年師走。昭和27年1月には新教室で学び始める。
○新校舎で11年続いて昭和38年(計算上11年経過すれば38年と思われる)、バスが定期運行となる。「時折小母さん方とも一緒になる。ほとんど知り合いだから「がんばれよ」などと声をかけられる。応えて「ハィ、」と小さく頷く」とは北原氏の言葉。
○そんな歳月を送るうちに閉校。卒業生は開校以来数百人余り。

と言った具合に北原氏の文脈から経過を羅列してみた。卒業生の数、そしてその経過年からみるとここに中学が存在したのは10年の余ということになる。戦後の時代の速さは、そこに身を置かなかったわたしたちにはまったく理解できないほど速かったに違いない。「建築には多額の費用を要し、相当額を拠出している。その返済も終わっていない。耐用年数も十分あると考え、方法を探したけれど適切な用途がない」という当事の様子はその速さの中で翻弄された山間のムラの苦悩が見える。新制中学が発足し高度成長へ向かうなか、昭和の合併も押し進められた。後には過疎対策として移住という選択も山間には求められた。この日記で何度も取り上げてきた芝平はこの北原氏の追憶の舞台にもなっている。「ほとんど知り合いだから「がんばれよ」などと声をかけられる」世界は、先日触れたイタリアのトレント市の話に重複する。今のような地方にあっても隣の見えないというのとは違い、まったく毎日が変わることなく同じ顔で連綿と続く日々において、人々は変化を求めてきたに違いない。だからこそ、必要と思われて造られた校舎も、さほど月日を経たないうちに廃校の道を歩むことになる。廃村をめぐるHEYANEKOさんは、廃村の目印に廃校を目指すという。それら山間の廃校は、この三義中学と同じ道を歩んだことだろう。きっと速い変化に追いつけなかった山間だったのだ。あっと言う間に人は減り、山に来ていたよその人たちも来なくなったのである。一つのこともなかなか推し進められない現代の課題に、わたしたちは逆の意味で関心を寄せられていないことに気付いてほしい。

 小豆坂トンネルをくぐり、宮原で県道に交差したところがこの中学が置かれたところである。だいぶ学校跡という雰囲気は消えてきたが、ここに優良農地を潰して中学が建てられたのである。
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