Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

洗い物

2009-07-09 12:20:14 | つぶやき
 朝の慌しい台所で、朝飯をとった茶碗を洗う。かつてはしなかった行為である。家を出る時間までほんのわずかな時間でも、時間があると思えばなるべく洗うことを心がける。その理由は夕方真っ先に家に着くのが自分だからである。間もなくほかの者が帰って来るならともかく、それから数時間は誰も帰ってはこない。遅くに帰ってきた妻が、流しにたまっている洗物を洗うのもしのびないと思うと、結局自分が洗うことになる。そうした毎日が続いてくると、帰宅したときに荒いものがたまっているか、そうでないかはそのときの自分の思いに影響するものだ。もちろん流しに洗物がたまっていれば落胆を覚えるもので、その量によってもその落胆さには差が出る。洗物が流しに置かれた器から溢れるように賑わいでいると当然落胆は大きい。いっぽう何もなく綺麗に片付いていると、ずいぶんと疲れが癒される。ようは妻が慌しく家を出て行くのとそうでないのとでは、流しの風景は大きく変わり、そしてわたしの帰宅の際の気持ちにも大きな差となって現れる。とはいっても流しに洗物が何もないほど綺麗になっていることはほとんどなく、必ず洗物がたまっているものだ。したがってその洗物が少しでも少なく、そして器から溢れんばかりでなければ、それだけでわたしの心の重さは晴れていく。できるかぎり少なくすることが、わたしが帰ってきた時の落胆さを軽くする要因にもなるわけである。だから1分2分という慌しい朝の時間にでも、少しでも洗物を少なくしようと心がけるのである。残しておいても「結局自分が洗うことになるのだから」という想定される結論への配慮である。とくに苦になることでもないが、自らが努力すれば結果的に自らに戻ってくるという日々の暮らしの中での学習である。

 さて、妻が見ていなければ洗物の際に水を加減することはない。妻は必ず節水を口にする。勢いよく蛇口から水を出したまま洗物をすることを嫌う。良いことなのだが、そこまではなかなか配慮できないのが男なのだが、実は毎日のようにこうした洗物をしていると節水に対しての意識も高くなるものだ。しかし、蛇口ではなく水栓の今は、それを上手に止めることはなかなかできないもの。上げるか下げるかという行為はけっこう調整の難しい好意なのである。そこへいくと廻す行為はその動きの大きさによって水量が変化するた、あまり意識しなくても水量はその時々によって変化す。人間の腕というか手の動きというものが、上下という単純な動きには慣れていないということなのかもしれない。つまるところ人間の動作を簡単にさせて使いやすくしたところで、必ずしも人間の動作には向かないものもあるということだ。こと水洗に関しては捻りタイプのものの方がわたしには合っている。しかし、人間は今後こうした動きに対応して進化、もしくは退化していくのだろう。

 付記 こんなことを書いてから流しの前に立つと、なぜか上下の途中で止まるようになる。人の意識とはこんなもので、きっと明日にはもとに戻ることだろう。
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