源太郎のブログ

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「その時、山が、左右に、ユラユラと、ゆれた」

2011年03月12日 | エッセイ
芦ノ湖の西岸。地図では「好展望」と書かれた所に「箒ヶ鼻」と呼ばれる小さな岬が湖に突き出ている。その岬を過ぎて暫く行くと、かつてあった地震災害の慰霊碑がある。昭和5年(1930年)11月26日早朝、丹那盆地を震源としたマグニチュード7.3の内陸直下型地震が発生し土砂崩れ・陥没・地割れ等を引き起こした。「慰霊碑」のあった所には御料局の造林作業に従事する人達の宿舎があり地震で芦ノ湖に押し流され8名の人達が亡くなったと言う。へ~、そんな事があったんだ~、と思う我々が、数時間後、もっと大きな地震に襲われるとは、その時夢にも思わなかったのは言うまでもない。

 芦ノ湖の西岸を半周する、と言う企画は数日前に降った雪の影響で11日に延期となっていた。当日は、ちょっと風が冷たかったものの朝から願ってもない青空快晴の日和。箱根湯本に集合してバスで関所に向かう。箱根の坂を登り、バスが高度を上げるに従い道路脇に寄せられた残雪が顔を出し始める。そして、バスが湖畔に下ると、雪の跡も所々に散在する程度になっていた。準備体操もそこそこに歩き始めたのが11時前。暫く歩いた旧街道に別れを告げて進むと「畑引山」のある「やすらぎの森」へ続く山道の分岐が現れる。今回は、「畑引山」を歩くのも目的の一つだから指導標のある山道に入る。暫く、数センチの残雪が所々に現れる。「畑引山」は標高776mの山だが登山口からの標高差は約40mだけ。あっと言う間に通過して残雪を踏みながら下山。西岸周遊路に出る手前で早々と昼休みをとる。

 昼食後、所々薄っすらと雪の残った林道風の道を行く。間もなく車止めのあるゲートを過ぎると「白浜」と言われる所を通過。そこから30分程で、くだんの慰霊碑のある場所に着く。周遊道は湖岸に沿い造られ、遠望する雪を頂いた駒ケ岳が美しい。道は「百貫ノ鼻」へと続き「真田浜」では湖岸の小さなビーチに降りて小さな波の打ち寄せる音を耳にし、対岸に見える権現神社の大きな赤鳥居などの景色を楽しんだ。

深浦水門から「立岩」と呼ばれる所を過ぎ「小杉の鼻」と呼ばれる岬を過ぎた辺りでやや道が狭くなり、残雪が圧雪され、やや滑りやすい下りがあった。道の右斜面は湖面に向かって急角度で落ちている。雪が無ければ何と言う事もない所だが安全策を取ってロープを張る事にした。ロープを張りながら現場を行きつ、戻りつしていると、突然誰かが叫ぶ。「先生、地震ですよ!」ふと見上げると山が右に左にゆっくりと大きく揺れているのが見えた。私には何も音が聞こえず、ただ景色が揺れている事だけが判った。だが、我々に出来る事はその危険地帯を一刻も早く立ち去る事だけだ。揺れが収まると短い距離だが、ロープと木に掴まりながら下山を開始した。ネットで地震情報を見ながら湖尻水門を通過した後、5時前、桃源台に着くと丁度小田原行きのバスが出る所だった。

 最初はスムーズに流れていた道路も宮城野を過ぎる辺りから交通渋滞で遅々として進まなくなってしまった。地震で皆一斉に帰路を急ぐ人が増えたのに加え、高速道路の閉鎖で一般道路がパンク状態になってしまったのだ。登山鉄道が動いている事を知って、我々は急遽宮の下でバスを下車。その時既に運行が止まっていた新幹線・東海道線・小田急線が再開する事を期待して登山電車で湯本から小田原へ出る事にした。午後7時半、桃源台を出てから2時間、ようやく小田原駅に到着。改札口の外は人で溢れかえっていた。東海道線だけが問題ならその日の内に復旧する可能性はあるが、JR東日本全体の問題なので、東に向かう電車の運転再開は無さそうだ、との判断で、小田原で一夜を明かす事にした。駅で小田原市が避難所を提供している事を知り、全員そこへ向かう事にした。ぞろぞろと、人の群れに従い、10分程歩いた所にある中学校に到着。外も中も人で溢れていた。登山靴を脱ぐとすぐ毛布を配る列に並ぶ。市役所の職員とボランティアの青年が箱から毛布を取りだし配っている。毛布を受け取ると、既に満杯の一階から2階の体育館に誘導され毛布を敷いて寝場所を確保。我々の後からも続々と毛布を手にした「帰宅困難者」が続く。後で聞いたら、中学校の避難所には約1000人が一夜を明かした、と言う。でも、我々は、取敢えず今晩の寝場所を確保して一安心した。随時、ネットで情報を収集、携帯で連絡が必要な人に電話で安否を知らせる。ひと段落するとお腹の事がようやく気になり始める。全員の食料を出して「夕食」をとった。同時に、小田原市の職員が「乾パン」の夕食を配り、暫時新幹線・東海道線・小田急線の運行状況が連絡される。9時過ぎからぼつぼつ寝始めるが照明の明るさと「騒音」で寝るどころではない。深夜、12時少し前、小田急線が12時頃から復旧するとの情報が入る。12時過ぎに電車に乗っても町田・新宿は午前1時・2時の話だしその先の交通手段も不明では行く事は出来ない。

 殆ど眠れぬまま朝を迎えて5時過ぎに起床。7時過ぎには東海道線も動き出すとの情報が入っている。市役所の人が、カップラーメンのサービスがあると知らせている。早速、列に並びカップラーメンを貰う。戸外の大鍋でお湯を沸かしラーメンを作っている。寒い一夜を過ごした後の暖かい食べ物が嬉しい。親切で行き届いた市役所の職員の活動には頭が下がる思いだ。朝、7時過ぎ、小田原駅での運行状況確認の為避難所を出る。JRの改札内外には人が溢れしきりに職員がマイクで状況を説明している。7時から運行する筈の電車が出ないのだ。何の事か判らなかったが「番線の確認」の為との事。ただ待つよりはと改札口に戻って喫茶店でコーヒーを飲みながら待つ事にした。小一時間後、JRの改札口に戻ると状況に変化は無かった。即座に、東海道線を諦めて既に通常通り運行中の小田急線に変更。8時半頃、小田原を後にして長い「一日」を終り我々は帰路に就いた。

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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
大変な体験でしたネ 実は私も東中野にいて地震に会... (うしまる)
2011-03-13 21:53:37
大変な体験でしたネ 実は私も東中野にいて地震に会いました。やはり帰る足がないため、ァートフラワー教室で一晩を過ごしました 食事も寝床も準備され暖かい部屋でラジオを聴きながら、携帯もほとんど使えない状態の中て゛、眠れないまま朝をまちました 私も初めての貴重な体験だったと思いながら、思いもかけない大きな災害のになった報道を見ています 参加者の皆さん無事にかえられて好かったですね!
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みなさん、大変な経験をされてしまいましたね。お... (カタリーナ)
2011-03-14 02:55:51
みなさん、大変な経験をされてしまいましたね。お疲れになったでしょう。首都圏では地震直後から地下鉄も含め、電車という電車すべてダウンでした。そのなかで登山電車が動いていたとは驚きです。でもそのお陰でみなさん小田原まで来ることができてよかったですね。地震は家にいても山にいてもこわいです。起こってほしくないですね。
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街の中が安全というわけではありませんでしたが、... (こじた)
2011-03-14 12:06:49
街の中が安全というわけではありませんでしたが、山の中の先の見えない状況から、ご無事の脱出、なによりでした! 堀さん、ご参加のみなさん、お疲れさまでした。
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久しぶりにブログを拝見しましたが、あの3.11... (元中学生)
2011-08-17 22:50:02
久しぶりにブログを拝見しましたが、あの3.11の日に箱根にいらしたのですね。皆さんが夜を明かされた中学校はわたしの母校です、懐かしくなりました・・・。
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そうだったのですか。学校にも小田原市役所の方々... (源太郎)
2011-08-18 09:48:11
そうだったのですか。学校にも小田原市役所の方々にも大変お世話になり助かりました。助けたり、助けられたりですね!
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