源太郎のブログ

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「フォトエッセイ」

2020年01月07日 | 写真

「カトマンズの月見そば」

 庭へまわった平蔵が声をかけるや、竹内同心が持参の大槌で、いきなり、雨戸を叩き破った。屋内のやつどもが逃げる間もなく、行灯を吹き消す間もなかった。躍り込んだ長谷川平蔵が、縁側から奥の間にふみこむと、「だれだ!!」「野郎!!」、と池波正太郎の「鬼平犯科帳」を読み進んだ所でドアをノックする音が聞こえた。ガイドのダワさんだ。出発時間だと、私を呼びに来たのだ。今日は、いよいよ、カラパタール(5545m)の頂上に向かう日だ。

  ネパールのエベレスト街道を歩きたくて、今までに何度計画しただろうか。その都度、行けない事情が出来て、諦めた。今回はラストチャンスだと思い本腰を入れ計画を練った。約3週間の1人旅は羽田から始まった。羽田空港から国際線の飛行機に乗るのは実に久し振りだ。調べたら、1979年にパンナムの飛行機でニューヨークに行って以来だった。横浜の住人にとって羽田は近い。電車賃400円。家を出たのが夜の9時過ぎ。初めて行く羽田の国際線ターミナルは真新しく輝いていた。「江戸情緒」豊かな商業施設に目を見張る。飛行機の出発は夜中の0時20分だから飛行機が出発するまでに日付が変わる。タイ航空の飛行機をバンコックで乗り継いでネパールの首都、カトマンズに向かう。カトマンズの空港に着いて、まずびっくりしたのは隣に「大韓航空」の大型飛行機がとまっていた事。空港が大分前にカトマンズに来た時と何も変わっていなかった事だった。

  ネパールはインドの北に位置し国の広さは北海道、九州と四国を合せた位の広さに2900万の人が住む。日本との大きな違いはその民族の多さだろう。細かく言えば100位の民族がひしめきカースト制も残る。国語のネパール語を話す国民は約半分だけ。民族が多いだけ言葉の数も多い。我々にも馴染みの多いシェルパ族は約16万人程度で比率にすればたった0.6%程度に過ぎない。ヒンズー教徒が8割を占め、ラマ教などの仏教は1割程度だ。

  カトマンズに着いた日は丁度、2週間も続く「ダサイン祭」の始まる日に当り街中が湧きたっていた。日本の「お正月」の様な祭で、家族が集まり祝うと言う。ヒンズー教の寺院では供物を手に列を作る人々の姿があった。翌日、昼食に困った私は、「蕎麦」と言う言葉にひかれて「蕎麦屋」に行った。カトマンズで蕎麦とは不思議だが、長野の戸隠で蕎麦の修業をしたと言う蕎麦職人の流れをくむと言う店で「月見そば」を食べた。蕎麦はネパール産。地元では所謂蕎麦団子風に食べると言うから日本風の「蕎麦切」は珍しい。当たり前と言えば当たり前だが、味は、お世辞にも「美味しい」と言える代物ではなかった。

  トレッキングが始まる地、ルクラには19人乗りの小型飛行機で向かう。何故か男女別に別れた搭乗口からバスで飛行機へ。席に指定は無く好きな所に座る。私の座った最前列の席からはコックピットの副操縦士の動きが良く見えた。丁度、技量をチェックされる日だったのだろう、若い女性の副操縦士が操縦桿に紅白の「幸運を祈る」布を巻きつけて終始操縦をしていた。離陸から着陸まではほんの20分程のフライトだからアッと言う間だ。以前は草原だったルクラの空港も今ではちゃんと舗装されている。だが、着陸はいただけなかった。前輪が折れるのではないかと思う位の角度で着陸と同時に大きな衝撃を感じた。飛行機が停止すると機内からは歓声と拍手が上がったから、乗客は皆、びっくりしたのだろう。私がチェック・パイロットなら、勿論「不合格」だ。

  空港にはガイドのダワさんが迎えに来てくれていた。ダワ・ノルブさん53歳、シェルパ族だ。因みに「ダワ」は月曜日生まれを意味し、「ノルブ」はお父さんの名前だそうだ。名前を聞けば何曜日に生まれたか判る人が多いと言う。エベレストに源を発するドゥード・コシ川をさかのぼる「エベレスト街道」の長い旅が始まる。初日の目的地は歩いて3時間半程のパクディンと言う所だから昼過ぎには着いてしまった。食事の後、友達を訪ねると言うダワさんと一緒に山に分け入った。歩く事一時間、山中の一軒家、ガラ・テンバさんの家に着いた。飲み物・食べ物、色々と歓迎された。ネパールでも、携帯・太陽光発電・衛星放送は至所で利用され生活革命を引き起こしている。携帯の利用が始まる前は手紙が重要な通信手段だったと言う。ルクラに郵便が着いた、と口伝えの連絡が入ると、往復一日掛りで取りに行ったと言う。今は「携帯」で何処でも連絡が取れる。辺鄙な山奥でも自家発電をすればテレビが見られる。そんな「生活革命」は都会よりも山間僻地と呼ばれる所により大きな「変化」をもたらしたと言える。

  歩き始めて二日目、長い間憧れていたナムチェ・バザールまで6時間半の行程。最後のナムチェまでの登りは標高差で650mの厳しい登りだ。ナムチェは標高約3500m。谷間に馬蹄形に集落を形成している。それにしても、ナムチェ・バザールとは何と人を引き付ける良い名前なのだろうか。私は地名に引かれて行って見たくなる事が時々ある。が、それで失敗した事も多い。アルジェリアの「アナバ」、つい名前にひかれて行ってみたが見事期待を裏切られた。

  エベレスト街道の10月から11月にかけては天気が安定している事もあって最盛期を迎えていた。世界中からトレッカーが集まり、列をなしていると言っても過言ではない。多くが目指すのはカラパタール(5545m)、ゴーキョ(4750m)やエベレストのベースキャンプ(5364m)だ。中でも、カラパタールを目指す人が多い。周りの8000m級の山々の比較から言っても標高の低いカラパタールは、そこを目指す人の数の多さから言っても「ヒマラヤの高尾山」と言った趣だ。街道沿いの集落には多くの宿泊施設な並び、人馬が行き来する様はさながら、江戸時代の宿場を彷彿とさせる雰囲気だ。

 「ゲンタロウじゃないか~」と背後から、突然の声。もうすぐ、モンジョの村に差し掛かる登りの途中だった。誰が、私を呼ぶのか、びっくりして振り向くと、カトマンズに空港で入国審査の列に一緒に並びながらチャットをしたアメリカ人だ。そう言えば、別れ際、名前を名乗りあったっけ。それにしても、後ろから私を見つけ、名前を覚えているとは、びっくりだ。西洋人は名前を名乗りあうと、すぐに覚える。我々には中々真似のできない才能だ。尤も、次に会った時に、「貴方様は何と言う名前でしたっけ?」等と聞くようでは生きて行けない世界なのだ。どうしても、すぐ忘れてしまう私は、必ずメモする事にしている。後で、メモを見たら、ケニーだった。私が呼ばれた時に、「オー、ハーイ、ケニー」と言えれば満点だが、そうは行かない。今度会ったら、そう言おう。

 世界中から集まるトレッカーを支えるのは「ポーター」の存在だ。尤も、「人力」以外に、殆ど輸送手段を持たない山間部では、殆ど全ての「物」が人か牛馬に担がれて運ばれる。トレッカーの荷物、食糧、建築資材、ペットボトルの水、等々だ。ポーターは14歳から60歳まで。ルクラの空港からナムチェまで2日がかりで荷物を背負って1kg当り40ルピー(40円位)程度。普通、80kg程度は担ぐから、ナムチェで受け取るのは3200円位だ。これを、高いと見るか安いと見るかは判らない。何れにしても「過酷」な仕事である事は間違いが無い。そんなポーターでも今や、皆「携帯」を手にしている。多分、高い通信費を稼ぐ為、以前にも増して、1kgでも多く担ごうと必死なのに違いない。

  ガイドのダワさんは叩き上げの苦労人だ。ナムチェから1時間ほど上がった標高3800mのクンデ村に生まれたダワさんは14歳で始めたポーターを2年半、調理器具を専門に運ぶキッチン・ボーイを3年半、それからシェルパを9年、シェルパ頭のサーダ―になって24年、ここまで苦労の連続だったと言う。サービスをする側の悲哀を長い間見つめたダワさん、この苦労を子供にはさせたくない、と言う、世界共通の親心で息子と娘2人をカトマンズの大学に通わせている。どれ程の経済的負担か、想像に難くない。ガイドの仕事は不安定で補償が無いから、としみじみと言っていたのが印象的だった。そうか~、そうなんだ~。同じなんだ~。

  日本の山での挨拶は「こんにちは!」。ネパールでは世界各国の人で溢れているから千差万別で色々だ。最も多いのが「ナマステ」。インド・ネパールで出会いと、別れの挨拶が「ナマステ」だ。旅の最後の頃、たった一度だけ「ボンジュール」と言う人がいた。私はその、フランス人の「気分」が痛いほど判った。誇り高いフランス人は、「俺はフランス人だ」、「何が、ナマステだ、タシダレーだ、ハローだ、グッド・モーニングだ、俺はフランス人だ、だから、ボンジュールだ」と言う気分だったのだろう。私が即座に反した「ボンジュール」に少しは溜飲が下がった、のかもしれない。

  ルクラの空港から歩き始めて9日目、いよいよ頂きを極める日がやってきた。ダワさんに促されて6時過ぎ小屋を出る。標高は4900m程。寒い。人の住む最後の村、ゴラクシェプを経由してカラパタールの頂上に向かう。ここまで、高度順化を充分に行い、ゆっくりペースで歩いて来た為か食欲が無い以外は高度の影響はそれ程ないようだ。信心深いダワさんはラマ教のお教を唱えながら歩っている。休み休み、サイドモレーン(氷河の側面の壁)の登り下りを繰り返して3時間ほどで標高5140mのゴラクシェプに着いた。ここにも多くの人でごった返している。一休みして、殆ど空身で頂上へ向かう。場合に依っては積雪のあるこの辺りも、この日は積雪も無くコンデションは上々だ。喘ぎながら、休み休み標高差400mを登って頂上に立ったのは午後1時前。ぐるっと、360度、ヒマラヤの白く輝く峰々が取り囲んでいる。エベレストも目の前。ローツェ、プモリ、ヌプツェ、アマダブラム等が青空を背景に屹立している。これじゃ、皆来たくなる訳だ!ここまでの苦労も忘れて山々の記憶を瞼の奥に刻んだ。

  下山してゴラクシェプの小屋に戻ると何度目にしたか判らない赤いレスキューのヘリコプターが丁度着陸する所だった。朝と夕方、何度ヘリを目撃した事だろう。高山病になったトレッカーを運ぶヘリは、毎日の日課ごとくルクラとの往復を繰り返していた。やはり高い標高の影響は侮れない。

 ルクラに戻る途中、疲れを癒す意味も有って、クンデ村のダワさんの家に2泊させて貰った。クンデは戸数65戸、300人程度、標高3840mだから富士山よりも高い所だ。エベレストに初登頂したヒラリー卿の作った病院がある事でも知られる。クンデ山(4200m)に登った後、村の小高い所にあるゴンパ(僧院)を訪ねた。丁度、前日から始まった6日間続く祈りの為、沢山の僧が集まっていた。村のお母さん達も食事等のお世話の為にいた。小さい村だから、お互いに顔見知り、丁度、昼食時、ダワさんと一緒に昼食を御馳走になってしまった。

  自分は「抗菌」とか「除菌」とかにすっかり「汚染」されてしまったのではないか、と実は心配だった。日本人は日本国内にいる限りは「抗菌」「除菌」に保護されているが、一度外に出ると、逆に弱点になってしまうのだ。案の定、最後の二日、体調を崩し、食欲も全くなくなった。でも、あれだけ濃密に現地の人物に接触を重ねれば、ある意味当然だったのかもしれない。

  沿道の文化的汚染を目の当たりにするとネパールにはちょっと来るのが遅かったかもしれない。欲を言えば、イザベラバードが日本を旅した明治初期に来られたら良かったな~、と思った。カトマンズに向かう飛行機に乗ると「月見そば」が無性に食べたくなった。そうだ、カトマンズに戻ったら、あの「絶品」の「月見そば」を食べに行こう!