GITANES臭は毒殺の手がかりになるかも。
それとは無関係に・・・。
自分がかかわる某所(の駐車場)でのこと。
白線外、つまり駐車スペースではないところに置かれた
クルマを発見。
ドライバーも乗っており、下を向いて何かやっている様子。
ドライバーが乗っているのだから放っておいてもよかったのだが
何か雰囲気に引っかかったので、声をかけてみることにした。
ノックする。
返事はない。こちらを見ようともしない。80歳オーバーの男性。
下を向いて何をしているのだろうかと思ったが、何もしていなかった。
ひょっとして、寝てしまった?
続けてノックする。
返事がない。確かにぽかぽか陽気だ。眠くなるのもわかる。
しかしそこは通路。クルマが止まっていては迷惑だ。
ノックする。
返事はない。
半ドアであることに気づいた。
ドアを開けて話しかけてみる。
「おーい、おとーさん?」
反応なし。
肩をそっと叩く。
反応なし。
肩をゆすりながら呼びかける。
返事なし。
うめき声、よだれと鼻水が出放題。
あ、やばいか。
「おとーさん、大丈夫か?あ、大丈夫じゃないな。」
呼びかけに対する明確な返事はない。
唸っているような声のみ。
警察署に電話。
運転手の様子、車種、場所、自分の名前などを伝える。
警「わかりました。救急車は呼ばれましたか?」
私「いや、先にこっちに電話したんですけど」
警「事件性はありそうですか?」
私「事件かどうかってこと?それ私が判断する?」
何しろ初めてのヤマだ。経験もないし
杉下右京や古畑任三郎のような洞察力もない。
どちらかというとダイハードのマクレーン系だし。
警「いやいや、血が出ているとか、事故みたいとか
怪我させられているとか」
私「ああ、そういう意味でいうと、病気や発作っぽいです」
警「ではすぐに警察官も向かいますが、それからではアレなので
救急車も呼んでください」
あ、そっちで連絡してくれるんではないのか。
私「はいはい、わかりました。」
119に電話。
男「消防ですか、救急車が必要ですか?」
私「救急車が必要なようです。」
また場所や様子、自分の名前などを伝える。
到着までとりあえずドライバーに呼びかける。
私「おーい、聞こえるか?大丈夫か?」
男「・・・」
私「発作か?」
男「・・・」
パトカー2台、ミニバイク2台、警官6名と
救急車1台到着。
簡単な検分のあと、ドライバーは救急車で運ばれていった。
警察官が、通路に放置されたままの車を駐車スペースに
移動させる。
男性の持ち物の中に携帯電話や病院の診察券などがあったので
関係各方面にはいろいろと連絡が取れるようだった。
警察にまたいろいろ書かされ尋ねられ、それから15分ほど
してようやく解放。
翌日、その施設からクルマがなくなっていた。
家族や縁者の誰かがクルマを取りに来たのだろう。
あれから1週間。
どこからも誰からも連絡がないので
あの男性がどうなったのかまったくわからない。
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お勧めのと言うわけではありませんが、
記載された話もその映画も決してフィクション
ではないと言う事を理解するのが
難しいのはなぜなのでしょうか。
すいません。勝手な感想のコメントで。
冷たい熱帯魚についてはいろいろなところで
うわさを耳にして、評判の高い映画だということは
知っているんですが、私はまだ観ておりません。
ですので「ああ、こういう感覚なんだろうな」と
推測するのも難しいのですが、その映画も
こっちの事件に対しても多分「何かが欠けている」
と感じられたのでしょう。
私が遭遇した事件については
そのときどういう心境だったか、とか、どの程度
自分が慌てていたのかなどの、感情の動きを
極力抑えた文章になったからかも知れません。
実際には
かなり弱った様子の男性を見て、数年前に亡くした
オヤジの姿がオーバーラップし、慌てたのも事実ですし、緊急通報に対する無条件な緊張もありましたし、
それから数日間はその状況・あの表情が頭の中に
度々浮かんできて、「あのおとーさん、助かったら
ええけどなあ・・・」とばかり考えておりました。
多分それは『心配』という心境なのでしょう。
そういう現実があったにも関わらず、どうして
文章がパサパサしているのかというと、最後の
一文がポイントになるのですが、
その後、まったくどこからも誰からも何についても
知らせがまったくない
という現実に接したからであります。
心配しようがどうしようが、発見者通報者は
無関係である ということです。
別に誰にもそういう(知らせる)義務はないんでしょう。
もちろん警察にも消防にも、ご本人にも家族にも。
お礼を言われたり感謝されたい訳ではありません。
どちらかというと、そういうのを面倒に感じるほうなので。
ただ、結構非日常的なことに遭遇したのに、
その後はまるで「なかったこと」として日常が
進行していくのだ
というのを表現するにはこういう『調子』が
マッチする と判断した訳です。
リアリティにも欠けているでしょうが、私も
未だにそれが現実のことだったのだ という感じが
ありません。
今でも彼のその後については気にかかります。
しかし何やら「気にかける筋合いはないのだ」と
強要されているような、不思議な気分です。
と、色々書きましたが
多分、単に文章が下手なんでしょう。
申し訳ないです。
こちらこそ言葉足らずで誤解が産まれていたら
申し訳ないです…。
文章ではなく、事象に対してなのですが、
それこそ生と死と言うものは本当はとても
リアルな筈なのに、それがある種現実的で
ない事に対しての疑問でした。
勿論表現の仕方も重要な要素ではあると思のですが、
それ以上に私の場合、これまでの人生において
各種メディアを通して、箱の中の出来事に
どこかファンタジックな感を受けるように
洗脳されているのかも。と言う、
感覚を覚えたものでコメントさせて頂きました。
個人的にはSGCさんの文体は私の好みですので、
言葉足らずだった事をお詫びさせて頂ければと
思います。
文章のことではないとお気遣いいただきましたが
やはりこの文体は、hakuさんの感じてらっしゃる
違和感に拍車をかけるのだろうなあと推察します。
生と死からリアリティがどんどんなくなる
という感覚を持っている方は多いと思われます。
今回のおじさんの件なんか、その人命を救うために
迅速に「処理」され、連れて行かれた後には
まったく何も残らず、クルマも知らない間に撤去され、
後日談も入ってこない状況で、
意識がほぼなかった男性がその後「生」を続け
られたのか、「死」を迎えてしまったのか、
様子を窺い知ることもできない。
もちろん赤の他人だからなんですけど。
hakuさんが仰るように「生」も「死」もリアリティ
を失い、ファンタジックですよね。
多分、それらを「観察」する機会がどんどん減り、
我々は「目撃」しかできなくなっているのかも
知れないです。
多分昔は、それぞれの家庭や隣近所で「生まれ」
「生きて」「衰えたり病んだりして」「死ぬ」
という事象がありふれていました。
そしてそれら(経過)を「観察」する機会を得ることで
全て連続した出来事でそれぞれが繋がっており、
だからリアルな世界であると認識できたのでしょう。
いまはそれらが分断され、なるべく見えないように
「箱に入れ」られ、断片的に目撃するのみになった。
これでは生も死も単なる一瞬のシーンに過ぎないと
感じてしまいますよね。
例えば、「消えそうな命」を目撃するのは
ワンシーンでも理解できるが、「弱っていく命」
は観察(ある種の定点観測)でしか把握できない。
ただこういう観察には「悲しみ」や「憂鬱」や
「恐怖」という苦痛を伴います。
どこか他人事で済んでしまえばそういう感情から
遠ざかることができるので、、
リアリティが希薄になるというのは
防衛本能の為せるワザかも知れません。
多分、リアリティをなくこと自体には
善悪はないのでしょう。
」」」」」」」」」」」」」」」
お詫びと仰いますが、
いただいたコメントによって
「どうしてアレをあのように書いたのか」
を自己分析する得難い機会となりました。
あれはあのように書くのが(自分では)必然だ。
と納得できました(尊大なんです、すんません)。
深く感謝します。
でも、真面目なコメントを書くのが
疲れました。
「バカボンのパパ」の話とか
「ヤマザキ春のパン祭りは三大祭のひとつ」
なんて話の方が得意なんです。
」」」」」」」」」」」」」」」」」
と、ここまで書いてふと思ったのですが
死体がゴロゴロ転がっている、例えば戦場に
なっている国では「死」はリアルであり
日常ですよね。いちいち悲しんでいられない
ほどのリアリティがあるのかも知れない。
そして、「死」を「悲しむ」という感情こそ
さもリアルっぽいものの、実はファンタジック
な境遇なのではないか とも感じます。
」」」」」」」」」」」」」」」
と、ここまで書いてまた思ったのですが、
「死」が珍しい社会もあり、まったく日常茶飯事
であるという社会もあるでしょう。
でも、「産まれてくる」ということに馴れて
しまう社会ってあるんだろうか?
死体が道端にゴロゴロ転がっていたら、そりゃあ
それらに鈍感になることもあるだろうけど、
「生」は、そんなに鈍感にはならないような
気もします。
ということは、生と死はずっとつながったもので
ありつつも、実は全然別物で・・・
当たり前か。
」」」」」」」」」」」」
バカボンのパパなら
「これでいいのだあ」
で解決ですね。
やっぱりバカボンのパパを尊敬します。
度々ありがとうございます。
ほんとそれこそ、私のブログではないですが、それって必要?と思われるコンプライアンスってやつばかりが跋扈して、
最も必要な事が忘れられ定義する事、
体裁を取り繕う事だけに追われる日々を
哀しく思います。
みんながもう少しわかっていれば…。
それこそ尊大な感ですが、
やるせないですね。
他者への配慮といってしまえば簡単ですが、今は最も難しいものになりつつあるような気もします。