隣の女神

2020年11月19日 02時27分33秒 | 創作欄

僕は、「大人になりきれないね」と崇拝する吉田良太さんに言われてしまった。
彼は3歳違いなのに、何かとアドバイしてくれる「師匠」のような存在に想えていた。
良太さんさんは、東京・神田生まれで、いわゆる江戸っ子気質だった。
彼は自身を「神田っ子」とも言っていた。
落語が好きで時には「隠居口調」。
「哲さん、どうしたんだい。元気ないね。また、失恋したのかい?女なんぞ、いくらでも居るよう」
僕は心が沈んでいたのに、可笑しさが込み上げてくることも。
「何処かに、お金落ちてないかな」
「哲さんまた、競馬かい。女神が逃げたって。女神は隣にいるよ。それが今日も見えなかったのかい?」
「隣の女神ね」
「そうよ。隣の女神を忘れちゃダメよ」
良太さん曰く。
本命馬の隣の人気薄の「お馬ちゃん」買え。
理由はあるようで、ないとか。
つまり、「隣の女神」は彼流のダジャレなのだろう。
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参考:江戸っ子気質
いなせとは、江戸時代の江戸における美意識(美的観念)のひとつで、若い男性を形容する言葉。
男気があり粋であり、心意気のあること。
また、その容姿やそういう気風の若者を指すこともある。
「いき」は、単純美への志向であり、「庶民の生活」から生まれてきた美意識である。
また、「いき」は親しみやすく明快で、意味は拡大されているが、現在の日常生活でも広く使われる言葉である。
江戸市中の気っ風(きっぷ)。
左官、大工、土方の多かった神田の気風が「いなせ」と見られていた。

九鬼周造『「いき」の構造』(1930)では、「いき」という江戸特有の美意識が初めて哲学的に考察された。
いきの要諦には江戸の人々の道徳的理想が色濃く反映されており、それは「いき」のうちの「意気地」に集約される。いわゆるやせ我慢と反骨精神にそれが表れており、「宵越しの金を持たぬ」と言う気風と誇りが「いき」であるとされた。九鬼周造はその著書において端的に「理想主義の生んだ『意気地』によって霊化されていることが『いき』の特色である。」と述べている。
「いき」は本来は“意気”であり、「意気地」「意気込み」「生意気」など、“やる気”や“心構え”などを表していた言葉である。
これが江戸初期の遊里で、男女の精神的な“本気”や“純潔さ”の称美語として使われ始め、“ピュア”を意味する「粋」の字が当てられた。
「つう」は、男性の遊びの美意識であり、「すい」は“洗練された美”という共通意識はあるものの、“極めた”“結実した”という豪華さの理念を伴うが、「いき」は必ずしもこれにこだわらない“内面的な美”あり、表面的はさっぱり、いやみがないなどと形容される理念として区別される。

 

 

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