浅草公園六区の今昔

2020年01月06日 10時12分03秒 | 社会・文化・政治・経済
浅草公園六区(あさくさこうえんろっく)は、東京都台東区浅草にある歓楽街である。
通称、浅草六区または公園六区。「六区」は元々1884年明治17年)より始まった浅草公園の築造・整備における区画番号の第六区画を指した。






繁栄

1884年(明治17年)4月1日付で公園の差配・世話掛に、劇作家で『江湖新聞』創始者の福地源一郎が任命。主に第六区の経営、公園全体の差配を任されるが、1889年(明治22年)7月に解任となった。

前後して、浅草公園六区は1887年(明治20年)の根岸興行部の「常盤座」に始まり、演劇場、活動写真常設館オペラ常設館などが出来て隆盛を誇り、江川の玉乗り浅草オペラ安来節等が注目を浴びた。1903年(明治36年)には、吉沢商店が日本初の映画専門館「電気館」をオープンした。

1890年(明治23年)に建設された凌雲閣(浅草六区北側)は通称「浅草十二階」と呼ばれた高層ビルで、その展望台は浅草はおろか東京でも有数の観光名所となったが、1923年(大正12年)9月1日関東大震災で崩壊した。

昭和に入っても「アチャラカ」と呼ばれた荒唐無稽の喜劇が好評を博した。

最盛期には劇場や映画館が30館を超え、娯楽の最先端の興行街となる。

第二次世界大戦に入っても人気を博し、1945年(昭和20年)になり東京大空襲で一帯が炎上するまで人気を博した。

終戦後もすぐに再建され、軽演劇、女剣劇、ストリップ、およびその幕間に演じられたコントが注目を浴び芸能の殿堂・一大拠点としてここからスターとなった芸能人も数多かった。

1951年(昭和26年)浅草寺は観音本堂の再建のためにランドマークであった通称「瓢箪池」(古瓢箪池を含む)を売却。

池は埋立てられ、1952年(昭和27年)浅草楽天地の映画館「浅草宝塚劇場」と1954年(昭和29年)遊園地「楽天地スポーツランド」、1959年(昭和34年)には東急グループの複合娯楽施設「新世界ビル」が建った。

また、1954年に観音本堂から六区興行街までの間が西参道商店街として整備された。

没落

1950年代後半に最盛期を迎えた浅草六区も、高度成長期と呼ばれた1960年代に入りテレビ時代を迎え、1964年(昭和39年)の東京オリンピック以降は東京都区部西側の新宿渋谷池袋等の方面に若者の文化が芽生えた。

1974年(昭和49年)、新世界の跡地にはウインズ浅草が造られ、1970年代に入り急激な地盤沈下を迎える。

若者世代の嗜好と合わなくなった映画館・劇場の多くは閉館となった。

以後、平日は通行人が疎らで、週末は競馬目当ての客が集中する光景が多くなった。

夜間は19時になると人通りも少なく、「不夜城」と詠われた嘗ての殷賑振りとは隔世の感がある。

バブル景気期の1986年(昭和61年)には複合商業施設「浅草ROX」が開業、1988年(昭和63年)に映画『異人たちとの夏』のロケ舞台にはなったが、六区は長い停滞の時期を迎える。

思い返せば、会社の懇親会で神谷バーで初めて電気ブランを飲んだのは、この頃であった。

まだ、みんな若かったな・・・・

亡き同僚3、亡き上司1人の顔も浮かぶ。

 
映画館が立ち並ぶ浅草六区の歓楽街、1937年昭和12年)1月

左 - 松竹館 池田義信の旧作『わが母の書』(1936年昭和11年)12月作品)、伊藤大輔の旧作『あさぎり峠』(1936年(昭和11年)10月作品)ほか上映中。
右 - 常盤座 アチャラカ演劇一座『笑の王国』(古川緑波菊田一夫退団後)上演中
 

昭和初期

 

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