宗教団体の存在意義

2024年07月17日 08時15分07秒 | 社会・文化・政治・経済

〈インタビュー〉 現代社会における宗教の役割
2022年12月2日
東京工業大学教授 弓山達也さん
 あらためて宗教の存在意義が問われる昨今の状況と、今後の展望について、弓山達也氏に話を聞いた。(「第三文明」12月号から)

1963年、奈良市生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。大正大学大学院文学研究科宗教学専攻博士課程満期退学。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、大正大学人間学部教授を経て、2015年から現職。専門は宗教社会学。現代世界の宗教性・霊性について研究する傍らで、財団法人やNPOの活動を通じ、学生と市民をつなぐネットワークを模索している。著書に『天啓のゆくえ』(日本地域社会研究所)、共著に『平成論「生きづらさ」の30年を考える』など多数。


現れてくる宗教的なもの

 旧統一教会の問題については、かつてのオウム真理教の問題との類似性が指摘されています。宗教団体の反社会性という点では同じですが、少なくともアカデミズム(学術界)の受け止め方はずいぶん違っているように思います。

 オウムの事件が起きたとき、アカデミズムの人々は宗教団体であるがゆえに起きた出来事だと捉えました。だからこそ、宗教に関するさまざまな議論が巻き起こったわけです。
 他方、今般の旧統一教会の問題は、お布施の強要という会員に対する抑圧・収奪の体制や、自民党議員と教団との関係性ばかりが指摘され、宗教的な側面はほとんどクローズアップされていません。それにもかかわらず、世間には「宗教=危険」という漠然とした印象が蔓延しています。

 明らかに一線を越えている旧統一教会が、社会的な非難や指弾を受けるのは当然です。
 しかし、その一例をもって宗教全般が危険だと捉えたり、宗教団体の政治参加を問題視したりというのは、社会にとって極めて危うい議論です。旧統一教会の問題を契機に社会から宗教を排除しようとする空気感がありますが、宗教が存在しない社会というのは、図書館や書店、映画館といった施設がない地域のようなもので、文化的に貧しいと言わざるを得ません。

 興味深い現象があります。それは、仮に社会から宗教コミュニティーがなくなったり、宗教を排除したりしたとしても、結局のところは“宗教的なもの”が現れてくるという現象です。私はこれまで東日本大震災の被災地に定期的に足を運んできました。少なくない被災地域では、未曽有の災害によって宗教コミュニティーが失われてしまったものの、時間がたち、地元住民や移住者、ボランティアの人たちによる新たなコミュニティーが成立してくると、「祭をやろう」という話が出てくるのです。

 こんなケースもあります。地域から疎外された水俣病事件の被害者らは、かつては「神や仏などあるものか」と思っていました。それがやがて「本願の会」という患者団体ができ、その活動のなかで野仏をつくったりしているのです。東日本大震災の被災地にしろ、水俣にしろ、宗教団体をつくったり、宗教的なスローガンを掲げたりはしていないものの、救いを求めるなかで結果的に宗教的な表現形態を取っているのです。

 他方、共産主義もまた“宗教的なもの”の一つです。
 善悪の階級闘争の末にプロレタリア独裁を目指すという思想については、多くの宗教学者が宗教的な構造だと指摘しています。共産主義の特徴の一つに、人類の歴史や世界を意味づけ、維持したり変革したりすることがあります。これは長らく宗教が担ってきた役割であり、そうした宗教の枠組みからどのように自由になるかという問題意識から生まれたのが共産主義なのです。

 裏を返せば、宗教の側は共産主義から学習すべき点があると言えます。ユートピアを目指しながらも、結局は人々を抑圧する国家をつくってしまった共産主義。それと同じことが宗教においても起き得るということです。その一例が、旧統一教会の問題です。

教団に所属することの重要性
 私は宗教には本来的に三つの役割があると考えています。
 第一に、人々をつなぎ合わせ社会を統合すること。第二に、人々に善悪の基準や倫理観を与えること。第三に、人々に意味や価値、使命感を与えることです。

 近代以前はこの三つの役割を宗教が果たすことによって、人類の文化が育まれてきました。それが近代以降には、教育や医療、福祉、政治などの専門化が進み、宗教が担ってきた役割が分散します。唯一、代替不可能だったのは死の問題です。死に直面したときにその意味を見いだしたり、苦しみを和らげたり、死後について思いを巡らしたりといったことだけは、今なお宗教の重要な役割となっています。

 専門化は一面では人々の生活を豊かにしましたが、一方で宗教との距離が開いてしまったために多くの人々は生活や人生に意味を見いだせなくなってしまいました。とはいえ、先述したように宗教がなくなろうとも“宗教的なもの”は再び現れてくるという見方もあります。
 かつての私は、どちらかといえば後者の考え方を持っており、宗教教団はなくなったとしても、人々は宗教的に生きていけると思っていました。ちょうど15年ほど前に、占いやパワースポットなどのスピリチュアリティのブームが起きた頃のことです。

 しかし、今では考えを改めています。この15年間の研究のなかで、教団の重要性に気がつきました。定量的な共同調査を行ってみたところ、教団に属さずにスピリチュアルな生き方をしている人々のなかには、幸福度が低かったり、他者と共生していく志向性が弱かったりするケースが多いことが明らかになったのです。

 あるいは、終末期の患者に対する宗教者によるスピリチュアル・ケアを見ていると、宗教者が醸し出す力や背後にある教団の力、そのさらに背後にある神仏の働きを感じることが少なくありません。病院に来る宗教者は、服装などの見た目は一般の人と何ら変わりません。

患者との対話の内容も、基本は傾聴に徹して何か特別なことを言っているわけではない。それでも、患者は癒やされるのです。

 同じようなことは、創価学会の座談会に参加したときにも体験しました。

法衣を着ているわけではない市井の人々にもかかわらず、会員の方々が語る言葉には、不思議と信仰を持たない人とは明らかに違う何かがあるのです。

安定的で独善に陥らない信仰のためには、やはり教団に所属するということが大切なのだと思います。

宗教が持つ両側面
 今や世界中の津々浦々に創価学会の会館が存在しています。10年以上前に東京・巣鴨にある戸田記念講堂で絵本の展覧会が開催された折には、私も娘と一緒に足を運びました。

今後はますます地域の文化施設としての役割を担っていただきたいと思っています。
 地域に開かれた会館という点では、東日本大震災がその可能性を示してくれた部分があります。

岩手県・宮城県・福島県の沿岸部の会館は、会員のみならず地域の人々にとって一時的な避難場所となったのです。

 創価学会が支持する公明党は、連立与党としての経験が20年を超え、多くの地方議会でも重要な立場にあります。その点、創価学会には一宗教団体という枠には収まらない社会的な責任が生じていると言えます。

セキュリティーの問題などはあるにせよ、学会の会館が地域の人々を主役にする場として機能すれば、学会にとっても地域にとっても良いはずです。

 宗教団体として、これまで以上に社会に開いていくためには、宗教間の対話も大切です。創価学会のような圧倒的な規模の宗教団体ともなれば、すでに他教団とは比較にならないほど社会的なつながりを持っています。
 ゆえに、これまでは他宗教と歩調を合わせなくともやってこられた。

ただ、これからの宗教教団は今まで以上に社会的責任を求められます。

圧倒的な規模を誇るのであればなおさら、宗教界の横綱として宗教間の対話を先導してもらいたいと思っています。
 オウム真理教や旧統一教会に象徴されるように、宗教は常に危険性をはらんでいます。

しかし同時に、宗教には人々を豊かにさせる面もある。

 先の共同調査では、宗教に心寄せる度合いが高い人ほど主観的な幸福度が高く、図書館や美術館、音楽のコンサートなどに行く頻度も多いということがわかりました。

教団に属せば、定期的な集まりやお布施もある。それを負担だと見る人もいるかもしれません。
 しかし、それらのことを補ってあまりある喜びや豊かな人間関係を得られるのです。

ゆえに、危険性だけを取り上げて恐れるのではなく、危険性を熟知した上で関わっていくこと。すなわち宗教リテラシーが大切なのです。

 人々の宗教リテラシーを高めるためには、宗教文化教育が必要不可欠です。

日本の教育現場では宗教そのものがタブー視されていますが、私は小中学校でも宗教の基本的なことは教えられるし、教えるべきだと思っています。
 宗教戦争を起こすのも宗教だし、この国を代表する美術作品を生み出してきたのも宗教です。
 今後は、そうした宗教が持つ両側面を語っていくことが重要だと思います。



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宗教団体に名を借りた詐欺集団

2024年07月17日 07時52分20秒 | 社会・文化・政治・経済

「宗教行為とはいえ犯罪」の線引きは… 霊感商法、罪に問えたケースを解説
園田寿 甲南大学名誉教授、弁護士
2022/7/26(火) 11:34
 
 ■祈りと法

 身の周りで理不尽な出来事が生じたときや、真摯な努力が少しも報われず逆運に嘆くときなどに、人は「なぜ」という根源的な問いを発し、その答えを求めて苦悶します。

たとえば、愛する人が理不尽な死を遂げたとき、その死の意味を求めて人は苦しみます。医師から、死因は窒息ですとか、心臓麻痺ですといった説明をいくら受けても、その苦しみが消えることはありません。「なぜ、死んだのか」という根源的な問いに対する答えは、自然科学の次元には見つからないのです。

このようなとき、人は〈祈り〉に向かいます。自らの日常的な現実を超え、超自然的な、人知を超えた大きなものに自己を委ねようとするのです。そのときに修行を積んだ祈祷師や霊媒師、僧侶などに共に祈ってもらい、心の平穏が得られることはよくあることで、それに謝礼を贈り、また受け取ることにも問題はありません。

しかし、その方法が社会的に許容される限度を超えたときには法の問題が生じます。

とはいうものの、そこには歴史的な経緯があって、単純に詐欺が問題になるかといえばそうではありません。

明治の頃も宗教の看板を掲げた怪しげな祈祷やまじないを行い、対価を払わせるということがありました。しかし、そのことがただちに〈だまし取る〉という意味での詐欺罪になるかといえば、そうではなく、基本的には警察犯処罰令が適用されました。これは、庶民の平穏な日常生活を害する比較的軽微な犯罪行為を処罰する規定ですが、その第2条17号には、「妄(みだり)二吉凶禍福(きっきょうかふく)ヲ説キ又ハ祈禱(きとう)、符呪(ふじゅ)等ヲ為シ若ハ守札類ヲ授与シテ人ヲ惑ハシタル者」(意訳:道理に反して幸不幸や災いを説き、祈祷やまじないを行ったりお札を配って人をまどわすこと)を処罰する規定があり、主にこれが適用されました。

 えせ宗教に対して詐欺ではなく警察犯処罰令が適用された理由は、おそらく次のようなことではなかったでしょうか。

自ら信仰心がなく、宗教的意味における祈祷をする意思も能力もない者が、人を惑わし人の弱みにつけ込んで金銭を受け取るような場合は詐欺罪が成立する可能性はある。
しかし、そもそも宗教的行為は科学的な観点からその真偽が決められるものではなく、そこには多少とも誇張や詐術的な要素もあるので「だまし、だまされた」という関係でとらえられるものではない。
怪しい祈祷行為やえせ医療行為を取り締まるのは、庶民の生活秩序の問題であり、警察犯処罰令の任務だ。

しかし、戦後になって信教の自由が憲法で保障され、軍国主義の精神的支柱であった神社神道から国教としての性格が剥奪されて、警察犯処罰令も廃止されました。そのことによって、宗教的行為の妥当性がダイレクトに刑法的な問題になりました。

まず、宗教的行為だからといってすべてが刑法的にも許されるものでないことは当然です。「加持祈祷傷害致死事件」と呼ばれる事件があります。これは悪霊を追い払うとして、祈祷を受けていた人の身体中を叩いているうちに、その人が亡くなってしまったという事件です。被告人は、加持祈祷は宗教行為だから、その結果人が死んでも処罰されないと主張しましたが、当然のことながら、裁判所は「信教の自由も絶対的無制限のものではない」として有罪としました(最高裁昭和38年5月15日判決)。

前世紀末に起こったオウム真理教の事件を見てもそうで、オウムの信者は人の生命を奪うことはその人の魂を救済することだという理由で殺人を重ねましたが、これが宗教だとして許されるものではないことは当たり前のことです。

しかし、殺人や傷害などの場合は、その不当性、違法性が明らかですが、詐欺などの財産犯の場合は微妙になってきます。

それは、祈祷、祓(はら)い、供養、みくじ、占いなどに謝礼を行い心の平穏を得ることは、わが国はもちろんのこと、どこの国でも古来行われてきた庶民の信仰だからです。人の不幸や不遇を先祖供養や霊などの問題に帰属して、単純に祈祷や除霊を勧めたり、開運グッズなどの購入を勧めることも基本的に自由なのです。

また、一般の商取引においても、多少の誇張やかけひきが行われることがあるように、布教の場面においても誇張や詐術的要素のあることは否定できません。まして、信仰の場面は、科学的な議論、証明を超越した次元の話になりますので、騙されたとか、理性的な判断が妨げられたかどうかの評価が困難になる場合が多いことも事実です。

しかし、このように宗教的行為の社会的妥当性を議論するには微妙で難しい問題があるとはいっても、裁判所は不当な宗教行為に対して刑法的判断を下して処罰している例があるのも事実です。その数は多いとはいえませんが、以下では、その数少ない裁判例から何が言えるのかを見ていきたいと思います。

■霊感商法の罪

改めて霊感商法とは

 霊界や先祖の因縁、祟りなどの話で人をことさら恐怖や不安に陥れ、そこにつけ込んで法外な金額で壺や印鑑などを買わせる商法が「霊感商法」で、一般には数ある悪徳商法の一つに位置づけられています。具体的な物(商品)の販売ではなく、祈祷料や供養料などの名目で多額の金銭を要求する場合もあります。

霊や先祖の因縁など、何を信じるか、あるいは信じないか、また自分が信じることを人に勧めるかどうかは信教の自由です。しかし、霊感商法の場合は、供養を怠ると取り返しのつかない不幸になるとか、財産を放棄すれば苦悩から抜け出せて魂が救済されるといったようなことをたくみに語りかけてきます。ときには密閉された部屋に長時間軟禁し、理性を鈍らせて合理的な判断ができない状態にして高額な開運グッズの購入や、教団への多額の献金を約束させるなどのことが行れます。

偽祈祷師事件(最高裁昭和31年11月20日決定)

宗教と刑法の関係について初めて判断した最高裁判例は、祈祷師が、自己の行う祈祷が病気治療にまったく効果がないと思っていたにもかかわらず、いかにもその効能があるようにあざむいて依頼者から金銭を受け取ったという事案で詐欺罪を認めたものです。

信教の自由に祈祷の自由も含まれるならば、祈祷師が科学的見地から祈祷に治療の効果がないと信じていても、そもそも祈祷という行為じたい超自然的な領域の問題だから依頼者のために祈るという意思があるのであれば、「だます」という行為に当たらないのではないかと思えます。その点でこの判例には疑問が残ります。ただ、効能をあまりにも誇大に、かつ怖がらせるような程度に到れば、詐欺罪や場合によっては恐喝罪の成立が認められると思いますが、本決定はこの点について具体的に述べていません。

霊能力師事件(富山地裁平成10年6月19日判決)

これは、寺院の僧侶が、加持祈祷の供養を行えば病気が治ると称して依頼者から100万円をだまし取った事案です。どのような場合に宗教を看板にして被害者から金銭をだまし取ったといえるのかが問題になり、被告人は、自分には霊能力があるから無罪だと主張しました。

裁判所は、被告人の霊能力について、この宗教法人における僧侶の修行研修や供養料を支払わせるシステムの実情などを検討して、被告人には特別な霊能力があったとは認められないとし、不安にさせた依頼者を錯誤に陥れて高額の供養料を支払わせたと認定しました。

本件では、被告人に霊的能力や宗教的確信があったかどうかが問題になりましたが、このような主観的内面的事実の認定はなかなか難しく、容易ではありません。その点、裁判所は、祈祷が宗教的組織の名の下に行われる場合、その宗教集団の(1)研修や面談の仕組み、(2)祈祷や供養の手法および実態について、当該集団の内部資料や証言などに基づいて明らかにし、これらの情況証拠を総合して霊的能力や犯意の有無を認定しており、妥当だと思います。

このような発想は、次の「法の華三法行」事件にも活かされています。

法の華三法行事件(最高裁平成20年8月27日決定)

この事件は、宗教法人「法の華三法行」の代表役員であった被告人が、「足裏鑑定」と称する面談を行い、ホクロがあればガンだといい、被害者らに「天声」に従って金銭を納めれば病気が治ると告げ、信頼した被害者らから1億数千万円余りの金銭を交付させたというものです。

裁判所は、次のような事実を認定し、詐欺罪の成立を肯定しました。

医師でもない者が病気を診断したことが欺罔行為に当たり、それが科学的な診断であるかのように被害者を錯誤させた。
勧誘がマニュアル化されており、「このままでは癌になる」などと脅かすよう指示されていた。
足裏診断から修行勧誘を通じて、最後には「天声フォロー」と称する高額の法納料を支払わせるための勧誘システムが確立していた。
勧誘に成功した者には報奨金が与えられるシステムであった。
その他の裁判例

霊感商法について刑法的観点から断罪したケースは必ずしも多くはありませんが、次のような裁判例があります。

. 大阪地方裁判所平成28年8月23日

浄化のためと称して開運ブレスレットの販売が問題になった事案。相当高度の組織性、計画性、常習性を有する大規模な霊感商法だとされました。

2. 大阪地方裁判所平成28年10月6日

宗教に名を借りた大規模霊感商法の事案で、相当高度の組織性、計画性、常習性があるとされました。

3. 盛岡地方裁判所平成30年12月19日

加持祈祷や水子供養の意思もないのに金銭の交付を受けた詐欺事案で、被害者の不安につけ込む卑劣な手口による霊感商法であり、継続性のある職業的、常習的犯行だとされました。

4. 仙台高等裁判所令和2年8月4日

水子供養のための加持祈等・石仏建立等の名目で多額の金銭をだまし取った霊感商法詐欺事件、組織性が認められました。

5. 盛岡地方裁判所令和2年12月23日

加持祈祷、水子供養などの意思もないのに、被害者らをだまして現金を出させた霊感商法詐欺事案。組織的、職業的、常習的犯行で、手口が巧妙、模倣性の高い犯行だとされました。

■信者は祈りの中で自滅させられる

これらの裁判例では、いずれも組織性、計画性、常習性の強さなどから組織的な詐欺罪としての犯罪性が認定されているのが特徴です。脅迫的要素が強くなってくると、場合によっては恐喝罪の成立も考えられますが、霊感商法では基本的に詐欺罪が問題になるものと思われます。

なぜなら、霊感商法に特徴的なのは、被害者の信仰心を巧妙に焚きつけ、被害者に自らが祈りを通じて心の平穏が得られたと思わせることが重要だからです。被害者に財産を吐き出させることによって被害者が心の平穏を得たように仕向け、そして被害者がさらなる心の平穏を求めて財産を自ら吐き出し続けるという負のスパイラルが形成されます。そこには、被害者自らが毒を求め続けて自滅するまで吸い上げるという点で、まさに薬物依存やギャンブル依存などと同じ問題構造があるのではないかと思います。

なお、これらの裁判例では、団体の教義そのものの真偽についての刑法的判断が控えられる傾向がありますが、裁判所が教義そのものを判断すると、特定の宗教団体に対する公権力の介入にもつながり、信教の自由との観点からみても問題なので、裁判所の態度は妥当だと思われます。(了)

【主要参考文献】

197207 西村克彦「宗教法人または宗教類似行為による犯罪 祈祷の効果を信じない祈祷師と祈祷料の授受」(宗教判例百選)
198901 古川・梶木「悪徳商法と消費者保護立法の動向」判タ680号
199101 大島一泰「宗教的感情 祈祷名目による詐欺・恐喝」(宗教判例百選・第二版)
199311 山口広「霊感商法と被害者救済」ジュリスト1034号
200012 木村光江「宗教活動と詐欺罪」研修625号
201005 木村光江「『法の華三法行』事件(刑事責任)」消費者法判例百選
201101 三上正隆「宗教活動と詐欺罪の構成要件該当性」宗教法制研究所紀要第51号
201101 宮下修一「宗教と消費者保護―霊感商法を中心に」宗教法制研究所紀要第51号


【余滴】


国家神道と信教の自由

はなしは明治維新の頃にまで遡る。

「王政復古」の大号令で始まった明治維新は、武士による政治を否定し、国家を千年以上も前の天皇中心の古代律令体制に戻すことが目的だった。そして、その精神的な支柱となったのが神社神道の国教化(国家神道)である。

 国家神道とは、皇室の祖先神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点とし、すべての神社を国家が管理するという制度だ。

帝国憲法第28条で信教の自由が認められていたとはいえ、それはあくまでも「安寧(あんねい)秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限」(意訳:社会の平穏を害さず、天皇の民としての義務に違反しない限)りにおいてのことであり、国教である神社神道と両立する限度で認められていた。仏教やキリスト教など、それ以外の宗教的活動は禁圧の対象となっていた。神社に与えられたこのような特権的地位と、国教としてのその教義は、のちの軍国主義の精神的支柱にもなった。

ところで、戦前には警察犯処罰令という、庶民の生活秩序の維持を目的として比較的軽微な犯罪行為を取り締まるための規定があった。

その第2条17号には、「妄(みだり)二吉凶禍福(きっきょうかふく)ヲ説キ又ハ祈禱(きとう)、符呪(ふじゅ)等ヲ為シ若ハ守札類ヲ授与シテ人ヲ惑ハシタル者」(意訳:道理に反して幸不幸や災いを説き、祈祷やまじないを行ったりお札を配って人をまどわすこと)を処罰することとし、また第18号は、「病者二対シ禁厭(きんえん)、祈禱、符呪等ヲ為シ又ハ神符(しんぷ)、神水等ヲ与へ医療ヲ妨ケタル者」(意訳:病人に呪術や祈祷、まじないを行ったり、お札や霊験ありと称する水を配って医療を受けることを妨げること)を処罰していた。

 しかし、第二次世界大戦後に制定された日本国憲法で基本的人権としての信教の自由(第20条)が保障され、神社神道は国教的性格を剥奪された。何を信じ、何を信じないか、また人に自らの信じることを勧めることは自由になった。礼拝・祈禱・宗教上の儀式などの宗教行為を行うかどうか、またそれに参加するかどうかも自由である。その結果、警察犯処罰令も廃止され、第2条17号、18号の規定は軽犯罪法などに受け継がれることなく失効したのであった。

人の不幸や不遇を先祖供養や霊などの問題に帰属して、単純に祈祷や除霊を勧めたり、開運グッズなどの購入を勧めることも、基本的に自由だとされたのである。(了)

園田寿
甲南大学名誉教授、弁護士

1952年生まれ。甲南大学名誉教授、弁護士、元甲南大学法科大学院教授、元関西大学法学部教授。

専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、薬物規制などを研究。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)、『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年朝日新書、共著)など。Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。趣味は、囲碁とジャズ。

(note → https://note.com/sonodahisashi) 【座右の銘】法学は、物言わぬテミス(正義の女神)に言葉を与ふる作業なり。

園田寿の書籍紹介

エロスと「わいせつ」のあいだ 表現と規制の戦後攻防史
著者:園田寿、臺宏士
性表現に関する規制の攻防史を明解に解説

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創作 彩音(あやね)との別離 23)

2024年07月17日 04時18分16秒 | 創作欄

あの日も、昭は会社の先輩の森田優斗とアンナの3人で中山競馬場へ行く。

そして、母に頼み頼み込んで得た100万円の手切れ金を持参したまま、競馬場へ向かう。

妊娠した彩音とは、別れることはできない。

そうであるなら、アンナに金を渡して別れるほかないと決意していた。

だが、皮肉にも競馬に負け続けた昭は、アンナに渡すべき100万円にも手を付けてしまう。

競馬の落とし穴だったのだ、100万円の金が残り20万円にも減額していた。

そして、最終レースに彩音の誕生日の86に、祈りを込めて20万円を投じる。

昭は、追い込まれた気持ちとなり、レースが見られなかったのだ。

当然、「昭、どこえいくの?」アンナが不信がる。

昭は逃れるようにして、競馬場内の食堂へ向かう。

そして、やけな気持ちで日本酒を飲んでいた。

そのレース結果に昭は驚愕する。

20万円が、何と760万円余の払い戻し金となっていたのだ。

その後に、昭が二人を連れてタクシーに乗って向かったのが、船橋の純和風旅館の割烹「玉川」であった。

「島田君、君は賭博の天才かもしれないな」昭は競馬を教えてくれた興奮する先輩の森に50万万円、そしてアンナにはその場では10万円を渡す。

手切れ金は、森と別れた後から渡すつもりであった。

 

参考

「玉川」と聞いて太宰ファンが思い浮かべるのは、彼が入水して最期を迎えた“玉川上水”ではないでしょうか。
船橋市には、奇しくも同じ「玉川」の名を持つ旅館がありました。

創業大正10年、歴史ある 玉川”は、今も宴会や宿泊などで多くの来客がある、船橋を代表する旅館であり、平成20年には国の登録有形文化財となりました。
そんな玉川の「桔梗の間」という部屋に、太宰は20日間ほど泊まって小説を書いていたといわれています。滞在費用を払うことができず、その形(かた)として本や万年筆を旅館に置いていったと伝えられていますが、昭和51年、旅館の母屋が火災に遭い、なくなってしまったといいます。玉川旅館は、令和2年4月末日に閉館し、たくさんの方に惜しまれながら約100年の歴史に幕を閉じました。

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