千葉県の船橋は古くから千葉の「商都」と呼ばれていた。
東京・中野から移転した昭は、作家の太宰治の小説の愛読者でもあり、船橋に移り住んだことで、改めて太宰を感慨深く思い起こしたのだ。
太宰治は、自身の回想記『十五年間』(昭和21年)の中で、「最も愛着が深かった」と述べているまちが、船橋である。
盲腸炎をこじらせ腹膜炎を起こし、鎮痛剤パビナールによる中毒にもなってしまった太宰が、療養のために東京杉並から船橋へ転居したのは、昭和10年7月1日、26歳のときで、太宰はここで内縁の妻であった“初代(はつよ)”とともに、1年3カ月の時を過ごした。
奇しくも26歳となった昭と同世代である。
太宰の旧宅は千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一九二八番地にあった新築の借家。
現在の住所では「船橋市宮本1丁目」。船橋駅から歩いて10分もかからない位置だった。
現在、旧宅跡には別の住宅が建っている。
船橋駅前の喧騒を知る人からは意外に映るほど閑静な、細い路地の入り組んだ住宅街。車通りはほとんどない。
近くには、海老川が今も静かに流れている。
『めくら草紙』(昭和11年)より
《私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思つた。私は家人に言ひつけて、どれでもいいから一本、ゆづつて下さるよう、お隣へたのみに行かせた。》
太宰がお隣から譲り受けて自宅の庭に植えたとされる夾竹桃は、昭和58年に中央公民館前の広場に移植され、現在でもその姿を見ることができます。また、近くには文学碑が建立されています。
昭と彩音が船橋の中央部を流れていた海老川を散歩した時に、思いもかけなかったのがアンナと突然にも出会ったことだ。
アンナは黙って行き過ぎたのであるが、目は憤怒を募らせていた。
実は、アンナは勤務する店のマスター(森先輩の兄)にしつこく言い寄られたことから、東京・亀戸店を辞め、船橋のバーに勤めていたのだ。
昭は彩音の存在をアンナに隠していたし、中野から船橋に移転したことも明らかにしていなかった。
当然、アンナは昭の会社の先輩の森田優斗に怒りをぶつけるのである。
「島田さんに女がいたね。アンナはあの男に裏切られたよ」
だが、森田は「そうか、そうなんだ」と言うほかなかった。
「アンナ、裏切られたけど、島田さんから絶対に離れないよ」それはアンナの宣言であった。
「もめごとは、困るな、でも、男女の問題は、成り行きに任せるほかないな」森田は二人の間に深く介入することを控える。
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