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映画 『セブン・イヤーズ・イン・チベット』

2022年10月25日 15時26分29秒 | 社会・文化・政治・経済

10月23日、午前1時30分から、この映画をCSテレビのザシネマで観たのは2度目である。

実話に基づくドラマであるので深みを感じた。
それにしても、120万人もの犠牲者が出たチベットである。

『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(Seven Years in Tibet)は、1997年のアメリカ映画。

セブン・イヤーズ・イン・チベット
 
 
監督 ジャン=ジャック・アノー
脚本 ベッキー・ジョンストン
製作 ジョン・H・ウィリアムズ 他
製作総指揮 デヴィッド・ニコルズ 他
出演者 ブラッド・ピット
デヴィッド・シューリス

 

セブン・イヤーズ・イン・チベット

アイガー初登頂で知られるオーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーの自伝の映画化。
彼がチベットで過ごした7年間、彼と若きダライ・ラマ14世との交流を描く。

ストーリー
1939年秋、登山家ハインリヒ・ハラーは世界最高峰ヒマラヤ山脈への登山に向かった。
時悪く、第二次世界大戦のためにインドでイギリス軍の捕虜となってしまった彼は脱獄し、
チベットへと行き着く。
チベットの首都ラサで生活をしていたハラーは、当時14歳で好奇心旺盛なダライ・ラマ14世と出会い、
親しく交流する。

ラサでの日々がハラーの荒んだ心に変化をもたらした。
しかし、その生活も中国共産党の人民解放軍によるチベット国への軍事侵略によって終わりを告げることとなるのだった。

 

この作品の監督は、ラストエンペラーの監督と対照的で、真実を伝えている

今から25年前の映画。 香港返還の年に公開になったアメリカ製の映画。

監督はフランス人。

オーストリアの登山家がチベットに入り、当時若かったダライラマ14世と出会う話である。

内容に関しては、ほぼ真実に間違いない。

中国共産党人民解放軍はチベットに入り問答無用に蹂躙している。チベット仏教で大切にしている絨毯の上を土足で踏み倒す。殺しまくる。毛沢東のでかい写真を一番目立つところに掲げる。

彼らにとっては宗教など関係ない。そういう点をちゃんと我々に伝えてくれているこの映画。

そしてラストエンペラーのバカ監督ベルナルド・ベルトルッチ監督と違い、セブン・イヤーズ・イン・チベットのジャン=ジャック・アノー監督は、常識をわきまえた方だと思う。

チベットは一つの国、ウイグルは一つの国、内モンゴルは元々はモンゴル。

もちろん台湾は国。香港も一つの国だ。中国なんかではない。

・こういうあたりまえのことを日本の教科書にはかかない。

・日教組が牛耳る学校の先生方はそのことを教えない。 ・朝日、毎日という新聞メディアは中国に協力し、偽情報を日本国内に垂れ流す。

・TBS、テレ朝というテレビメディアは全く中国寄り。

・NHKも中国メディアのチェックを受けたようなだらしのない放送ぶり。

・立憲民主党の小沢一郎、2009年12月に総勢626名にもなる訪中団で中国訪問。日本にはこういう中国と関係の深い政党があり、決してこの党は中国の悪口を言わない。

だから、こうやって映画感想文に書いて、見て下さった方々が一人でも真実を知るということをやり続けなければならないと思っている。

日本人よ。特に若い方々。目を覚ませ。気付いてくれ。

これから将来、台湾、尖閣諸島、沖縄、そして最後には日本本土が危なくなる。

自国は自分たちで守らなければならない。アメリカ頼みではダメ。それを怠るとこの映画のチベットの二の舞になる。

 

ウイグルに重ねてしまう

チベットの文化や美しい風景が中共に浸食されていく映像に胸が抉られる思いで鑑賞しました。

ストーリーときちんとしており、楽しめた反面、ウイグルや台湾、もしかしたら日本の未来を暗示してるようで辛い気持ちになります。

今のハリウッドじゃ作れない作品でしょうね。 色んな方に見て欲しい作品です。

 

冒頭のヒマラヤ登頂から始まって、インドの収容所、チベットの大自然、ポタラ宮殿、チベット仏教など場面がどんどん展開するうえに、遠距離離婚、白人とチベット人の結婚、会えない息子への思い、反目しあっていた者の友情などの人間描写がはさまれて、最後は共産主義者のおバカぶりまで出てきて、まあまあ盛りだくさんだこと。

詰め込みすぎの観はありますが、画面もカラフルで話のテンポもいいし、普通に誰にでもオススメできそうです。

中共はずいぶん 怒ったらしいけど微笑ましいですね。

 

今こそ、観なければならない映画

ダライラマ14世のことや、チベットの事を良く知らなかったので、とても勉強になりました。

ハインリヒ・ハラーの人生より、彼がこのチベットの記録を残したことに大きな意味があり、監督が映画にしたことで多くの人々にそれを理解する事ができた、貴重な映画です。香港、ウイグルしかりです。

 

中共によるチベット弾圧

素晴らしかった!チベットの山々の美しさ、ラサの街や僧院の祈りのシーンなど圧巻。配役も脚本も良く飽きずに観た。 ウイグル、チベット弾圧。

武漢ウイルスの隠蔽など中共の残酷さが世界に知れ渡りつつある現在ではまず作れないであろう貴重な映画。ベースは人間ドラマなので心に響く。

 

余韻

美しい景色と、人と人との関わりと、痛々しい歴史と、よく描かれています。

見終わった後には、長い距離と時間を共に過ごしたような感慨が得られました。

序盤は、ハインリッヒの性格の悪さが気になったりして「面白くなるのかな?」という感じでしたが、 それも後々への伏線となっていました。

チベットを去る時はグッと来ます。

若い頃のダライ・ラマは、こんな好奇心旺盛な少年だったのかな、とか、 実在の人物なのでそう思いながら見ました。

起承転結の分かりやすいエンターテインメントとかではないけれど、 余韻がじわじわと来る良い作品です。


犠牲者120万人 祖国を中国に奪われたチベット人が語る 侵略に気づいていない日本人

2022年10月25日 15時04分18秒 | 社会・文化・政治・経済
 
ペマ・ギャルポ(著)
 
来日52年の集大成

日本は第2のチベットになる!

チベット人犠牲者1,200,000人
日本人よ、中国の属国になってもいいのか?

中国による巧妙な侵略計画は
日中国交正常化から既に始まっていた!
なぜ「寛容の国」は滅ぼされたのか?
「平和憲法」という幻想に惑わされるな!

チベットには、心から平和を祈る人々は僧侶をはじめたくさんいた。
しかし中国は、そんなチベット人を無慈悲にも、大量に虐殺したのだ。

侵略の実態を知るチベット人には、「平和憲法を守れ」という声は、
他民族による支配の現実を知らない人の戯言にしか聞こえない。

「日本人には絶対に同じ悲劇を繰り返してほしくない」
本書には、祖国を失ったチベット人の願いが込められている。

私は今は国籍を日本国としている。
一度祖国を失い、しかも同胞たちは虐殺の運命にさらされた。
それだけに、日本では、絶対に同様の悲劇が起きてほしくはない。
チベットにおける体験が、日本の方々に、少しでも役立つことを切に望む。(本文より)
 

出版社からのコメント

ペマ・ギャルポ氏は、今の日本が二つの大きな危機に
直面していると指摘する。一つは外的な危機、
もう一つは内的な危機である。

ペマ氏には、今の日本が、中国に侵略された祖国チベットに
重なって見えている。チベット侵略の原因そのものが、今の日本の
根幹に鎮座しているからだ。“平和憲法"のことだ。
チベットにも、心から平和を祈る人々は僧侶をはじめ大勢いた。
しかし中国は、そんな彼らを無慈悲にも虐殺したのだ。
それを身をもって知るペマ氏には「平和憲法を守れ」という人達の言葉は
他民族支配の現実を知らない人の戯言にしか聞こえない。
チベットが侵略された最大の原因は、僧侶達が国防のための
近代的な軍隊の必要性を認識していなかったからだ。
チベットの例は、どれだけ平和を願っても侵略は阻止できず
国防を忌避する姿勢が逆に侵略を招くことを示している。
東チベットではゲリラ活動が続いていたが、チベット中央では
抵抗するから中国を怒らせ、平和が損なわれるのだ
という雰囲気があったと言う。
今の日本のメディアの言説や、領海侵犯の中国船に対する
日本政府の対応とよく似ている。

次に内的な危機について。
ペマ氏の日本分析の深いところは、日本の強さの源泉は
「おかげさま」精神にある、と喝破している点だ。
かつての日本企業の強みも「おかげさま」精神にあった。
自社の成長だけを考えるのではなく、国全体の利益を考え、
社員を共同体の一員として守り、社員も会社のために尽くしてきた。
しかし、この美しい礼節、道徳、協調の共同体であった日本の精神は
GHQの統治後、徐々に壊れ、自らの手でも破壊し、
日本の強さが失われていった。

五輪の金メダル選手が「応援してくださった皆様のおかげで」
とコメントするのも、応援者が「日本人すごい」と自然に口に出るのも
両者ともに強い共同体意識があるからだ。
しかし残念なことに、「すごいのは日本人じゃない、選手だ」と
水を差す人達がいる。
これは共同体の中の「おかげさま」の関係を断ち切ろうとするもので
こういった思想が日本を害してきたのだ。

ペマ氏はダライ・ラマ法王を靖国神社に案内したことがある。
チベットにも、靖国の英霊達と同じく、捨て身の精神で中国に
立ち向かい、散っていった人達が大勢いた。
しかしその記録は何も残されてない。
ペマ氏は靖国の存在をうらやましく思ったという。
国を失うということは、祖国のために命を捧げた英霊を
顕彰することもできなくなる、ということだからだ。

「日本人には絶対に同じ悲劇を繰り返してほしくない」
本書には、祖国を失ったペマ氏の願いが込められている。

内容(「BOOK」データベースより)

チベットには、心から平和を祈る人々は僧侶をはじめたくさんいた。しかし中国は、そんなチベット人を無慈悲にも、大量に虐殺したのだ。
侵略の実態を知るチベット人には、「平和憲法を守れ」という声は、他民族による支配の現実を知らない人の戯言にしか聞こえない。
「日本人には絶対に同じ悲劇を繰り返してほしくない」本書には、祖国を失ったチベット人の願いが込められている。
 

著者について

ペマ・ギャルポ
1953年、チベット・カム地方のニャロンに生まれる。1959年、中国軍の侵略によりインドに脱出。
1965年、日本に移住。
1976年、亜細亜大学法学部卒業。
1980年、ダライ・ラマ法王アジア・太平洋地区担当初代代表。
現在、拓殖大学客員教授、チベット文化研究所所長、アジア自由民主連帯協議会会長。
2005年、日本に帰化。
主な著書に『チベット入門』(日中出版)、『「国」を捨てられない日本人の悲劇』(講談社)、
『中国が隠し続けるチベットの真実 仏教文化とチベット民族が消滅する日』(扶桑社)、
『立ち上がれ日本! 目醒めよ、麗しの国』(雷韻出版)、『日本人が知らなかったチベットの真実』
(海竜社)などがある。
 
 

1. いかに平和ボケして、太平の眠りを貪っていたかに気付かされた。
本書は、平和ボケしたわたしを目覚めさせ、現実に気付かせてくれた。
著者は中国の弾圧を生き抜いたチベット人難民で日本に帰化し、現在は拓殖大学教授。
 
2. 中国共産党政権の侵略で、チベットは120万人以上の犠牲者を出した。中国軍によってチベット文化の根幹をなす仏教寺院は多数破壊され膨大な貴重な仏典が焼却された。
チベット民族は、中国の統治下で二級国民の屈辱を味わわされている。この悲劇は日本では全く報じられなかった。
 
3. 著者は日本人に警告する。外交的美辞麗句に油断するな。中国は相手が弱いと見れば外交的約束を平気で反故にする。
中国とチベットに締結された17条協定の反故、香港返還後50年間は体制を変えないとの「中英共同宣言」の無視を見よ。
 
4. 著者は更に警告する。韓国を観よ。日本人の人の良さに付け込んで、外交的合意を平気で反故にしているではないか。
両国とも竹島に恒久的施設を建設しないとの日韓条約締結時の合意の反故、同条約時解決済みの徴用工問題の蒸し返し、不可逆的と合意した慰安婦問題の蒸し返し等、弱腰の日本をコケにしているではないか。
毅然とした外交が欠けているためだ。
 
5. 外交的リスクに備えよ。隣国の政治が突然、日本敵視姿勢に転換するかもしれない。アメリカに日本の安全を頼りすぎるな。アメリカもいつ、どのように変身するかわからない。
自分の国は自分たちで死守する覚悟がなければ国は遂に滅ぶ。二級国民として他国に支配されるのは辛い。
チベットがその例だ。日本が平和憲法で、戦争放棄しても、世界中の国は外交手段として戦争を放棄していない。理想は現実の世界では通じない。
 
6. 次のような警鐘も印象的である。

① 日本国民は、自国の歴史をしっかり学び、誇るべきところは誇れ。
アジアが欧米の植民地支配を脱し、独立を勝ち得たのは、日本の欧米への挑戦があったからこそなのだ。
当のアジア人はそれを公正に評価している。
② 日本の政治家は、国益を論ぜよ、外交を論ぜよ。
3面記事的スキャンダルで国会の議論の場を空費するな。
太平の眠りを覚ましてくれた著者に満腔の感謝と敬意を表するものである。
 
 
 
チベット出身のペマ・ギャルポ氏は、昭和40(1965)年12月、12歳の時に日本に留学生として迎えられ、文化の違いに戸惑いながらも、周囲の人々の協力により、日本に対する理解を深めていった。
ギャルポ氏が感服したのが、日本人の公共心の高さと「おかげさま」という言葉である。何かを成し得たときに、自分だけの力だと考える傲慢さを捨てて、この結果は自分を応援してくれた全ての人々のおかげによるものだと受け止める。
その精神は、個々人の生き方だけでなく、これからの時代、世界が必要としているものである。
その素晴らしい日本社会の秩序や倫理が、1980年以降、「自由」「プライバシー」「国際化」といった掛け声のもと、どんどん破壊されていったことを残念がっている。
個人の自由を無制限に拡張していけば、その自由を規制するルールを国民皆で作り上げていこうというのが、民主主義の根本的な姿勢である。
つまり、自由と民主主義は、ある意味対立する概念で、だからこそその両方が必要なのである。

ギャルポ氏は、中国がチベットを侵略し、民衆を虐殺したことは許してはならない行為だが、チベット側にも多くの過ちがあったことを認めなければならないとしている。チベットで大きな勢力となっていた僧侶たちが国防のための近代的な軍隊の必要性を重要視しなかったのは、中国の侵略に対して決定的な弱点だった。
更に、国連への加盟にも批判的だったことが、国際社会の支援を受けにくくした。当時のチベット人社会は、あまりにも過去の伝統と信仰にとらわれ、時代の変化を理解していなかった。
国内の団結力のなさ、国際感覚のない一国平和主義、外交交渉の不手際などがチベットを滅ぼした原因であると認めざるを得ないと述べている。
同時にギャルポ氏は、現在の日本国の憲法前文と第9条を守るべきだとする日本の知識人、政治家の発言は、かつてのチベットを滅ぼした言説とまるで同じ幻想にとらわれたのもののように思えると述べている。
この憲法は、自国を軍隊によって防衛し、主権を守る意識を喪失した国家の姿にしか見えない。
日本国が国際平和を希求し、戦争を放棄しても、相手国が同じ考えに立ってくれるとは限らない。
9条を守れという人たちの中には、たとえ侵略軍に占領されても、非武装を訴える人もいる。
が、侵略者に植民地化された実態を知るギャルポ氏は、他民族に支配されるという現実を知らない人の戯言にしか聞こえないと言い、1950~1976年のチベット人犠牲者数は120万7387人だと述べている。
未だに、外国の軍隊が侵略してきても、白旗を挙げればいい、占領されても平和が守れればいいという類の議論をする人がいるようだ。
それは日本がアメリカによる占領以外に他民族に占領支配された経験がないから言えることである。
占領した相手が知性と法律をもって支配してくれる保証などどこにもなく、チベットのように二級市民として扱われ、何の権利もない状態に置かれることがいかに悲惨であるかを考えれば、そのようなことを軽々しく言えるものではないという。
日本の選挙では、外交や防衛というテーマが必ずしも選挙における得票につながらないという現実があり、このことも変えていかなければ、真の意味での国防体制は作れないと述べている。
安倍首相は、何とかして戦後レジームからの脱却を図り、日本が国際社会で役割を果たすための環境整備をしようとした。
しかし、リーダーだけが頑張っても、政治が前に進むことは難しい。
国民全体、政党全体が、国にとって一番重要な政治課題は何か、どの方向に日本が向かうべきかを判断する基準を持つ必要がある。
日本国が守るに値する国だという意識を国民が持たなければ、決して国が強くなることはない。
国が強くなることということは、まず国民全体が社会に貢献する意思を持つということだ。
そのためには、少なくとも法律をきちんと守って生きていれば、衣食住を保証されるという、かつて日本ではその価値が認められていた福祉国家的なシステムが「国防」のためにも必要なのである。
 
 
 
 
決して感情に任せて中国批判しているのではなく、日本人の琴線に触れるように淡々と実体験を織り交ぜて分かりやすく書かれています。
特にチベットが中国に侵略されていく過程を読むと、かつてチベットが侵略を受け始めた頃と今の日本の世論や情勢がそっくりである事に気がつき、背筋が凍りつくような恐怖を覚えました。
著者はインド経由で日本に亡命した後 戦前 戦中世代の日本の有志に支えられて今日がある事を恩義に感じ、現代の日本が祖国の二の舞になる事を憂いて本書を推敲してくれた事を、今の日本人は感謝しなければならないと思います。
現代日本全国民 必読の良書。
 
 

人口600万人といわれていたチベットは、中国の侵略で120万人が犠牲になった。
人口の20%。現在の日本で考えると、2,540万人の犠牲者に相当する。

1949年に建国した中共は、「チベットを開発する」という交流のなかで道路建設にチベット人を強制労働させた。この道路は結局軍隊を送るのに利用され、軍事制圧を許してしまう。
現在の「一帯一路」が何を目指しているかを暗示するエピソードであろう。

本書はチベット滅亡で日本に亡命し、日本に帰化した著者が日本に対する提言を行っている。
 
 

まあ、日本がチベットの様に丸ごと中国に飲み込まれるとは思いませんが、尖閣、沖縄・東シナ海周辺の脅威というのは確かに気をつけなければいけないと思います。

平和を愛するチベット人達の歴史の山積を踏みにじる様な中共のやり方に怒りを感じつつ、焼身自殺等で抗議の意志を示しても、その死すら記憶されない彼らの境遇には同情を禁じ得ない。

国防に関して慢心は許されないというのは、当然、日本が他山の石としなければいけない事だと思います。
ペマ氏の指摘で興味深いのは、日本国内の内輪もめが、日本の国力をそぎ、日本人の美徳・良い面を内側から破壊しているという部分。

それについては、普通に考えて異論はないと思いますが、結局、老若男女は皆、自分の私利私欲に走り、こういった内輪もめから抜け出せないでいる様に見えます。

最近、ネット等で、よく見かけるのが、旧態依然の権力者等を指さして、下駄を履かされているなどと言って批判する論調。
私もそういう指摘が全て間違いとは思いませんが、何でもかんでも、その様な捉え方をして、話を単純化して処理するのはどうかと思います。

そりゃあ日本社会だって完璧じゃないし、色々金属疲労もあるでしょうけど、話を単純化するあまり、日本社会の良い部分や、間違っていない面まで、イケイケどんどんで破壊するという風潮は、かなり危険だと感じます。

老若男女が、いがみ合ったりせず、協力し合う事。
それが今の日本社会に必要な要素じゃないでしょうか。
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利根輪太郎の競輪人間学 勘違いがまさかの結果に

2022年10月25日 14時01分59秒 | 新聞を読もう

FⅠ 伊東競輪スマホで競輪買うならチャリロト

情けないが、<勘違い>が多い

つまり、思い込みや過信であり、軽率なのだ。

そんな、男に幸運が転がり込んできたのである。

昭和期の女子競輪の話と同様に、女子競輪は「つまらない」と多くの競輪ファンたちが、敬遠する。
つまり、車券的な魅力がないのだ。

この日も、女子競輪を見送る。

だが、女子競輪レースを見送っていたのに、買った8レースの車券が何と7レースになっていたのだ。

7レース

2車単

2-6(2.3倍) 

2-1(2.7倍)    

2-3(4.2倍)  

3連単 

2-6-1(4.5倍)

2-6-3(6.4倍)

2-1-6(5.6倍)

2-1-3(7.4倍)

 2-3-6(9.4倍)

オッズ表を見ただけで、車券を買う気が失せる。

そこで、8レースを検討する。

8レース

並び予想 1-7-5 2-4 6-3

レース評
捌きと差し脚は佐藤龍が一番。同県の川越に乗り白星発進。吉田次第で宿口が浮上。
捲り破壊力は佐藤博、乗る五日市も圏内。

1番人気4-2(6.7倍)

4-2
4-3
4-1
4-7
各3000円

だが、車券が8レースではなく、7レースになっていたのだ。

7レースは、2番の尾崎 睦選手が圧倒的な支持を受けていて、とても4番からの車券など買いようもない失態。
がっくりした。

1万2000円がこれで、「紙屑か!」と落胆するより、自らの愚かな<勘違い>には、言いようもなく腹が立ってきた。

頭に血がのぼったので、鎮めるために7レースを見ないで酒を飲みに行く。
だが、競輪場に戻るとまさかの結果となっていた。
最近は、3連単車券で痛いめにあってきたので、2車単勝負に切り替えた結果だった。

4-3 4万5,430円(21番人気)

4-3-6 18万5,640円(73番人気)

136万2900円の払い戻しとなる。

ちなみに、8レースは本命の4番が2着に。

2-4ラインの2番は7番選手に分断されて、あえなく失速する。

結果

7-4 2,430円(9番人気)

7-4-1 4,840円(15人気)

 

<参考>

昭和期の女子競輪

昭和の競輪創世期には、女性のプロ競輪選手だけで行われた競輪「女子競輪」が存在し、代表的な女子選手として、奈良の田中和子や神奈川の渋谷小夜子、山口の畑田美千代などがいた。

『競輪の生みの親』とされる倉茂貞助は、競輪創設時に「競馬に対抗するためには何とか新機軸をひらかねばならん」という考えから、(ショービジネス的な側面も含めて)女を走らせなければ自転車競技に新鮮味を持たせることができない、としきりに言って女子競輪の開催にこぎつけた。

まずは103名を募集し、1948年11月、小倉競輪場での競輪初開催と同時に女子競輪もオープンレースとして開催された。

倉茂は女子のレースも男子のそれと同様に車券の対象としたかったが、一条信幸に強硬に反対されたこともあり、当初はオープンレースとしての開催となった。

だが、観客からは拍手喝采で迎えられ、その反応は車券の対象となる男子の競走にも劣らないものであった。

1949年10月に行われた第2回全国争覇競輪で正式な競輪としてのレースとなり[187]、当初は女性の新職業として大いに脚光を浴びた。

のち日本サイクリストセンター(現在の日本競輪選手養成所)が設立されてからは、1951年の男子に続いて1952年4月に女子選手の全国一斉募集が行われ(ただし応募は25歳までという年齢制限があった)、この時は100名程度が採用され、2か月程度の期間で訓練が行われた。

女子選手の格付けは、開始当初はA級・B級の2層(当時の男子はA級・B級・C級の3層)とされたが、1951年3月の全国競輪施行者協議会の総会において、男子はA級・B級の2層とした上で、女子は男子B級待遇とすることが決まり、B級1班・2班の2班制となった。

当時の自転車はリムが木製であり、またバンク地面がセメントではなく板張りのところもあった。
元選手によると、移動は夜行列車が中心で、四人が向かい合うボックス席の座席と座席の間に板を渡して、足を伸ばして寝ていたこともあった。

賞金は、大卒の初任給の平均が9,000円の時代に、多い時で4万円あったという。

他に優勝者には副賞として賞品もあり、18金ネックレス、着物、鶏肉、タンスなどが贈呈されたが、宅配便などなかった時代であり、荷物はすべて自分で持って帰っていたという。

開始当初は女性誌等のグラビアで取り上げられるなど、多方面に話題を提供したこともあった。
また、主に開設記念で年に1度「ミス・ケイリン」と題した女子選手のみでの開催が行われていたことがあり、特に京王閣競輪場の開催ではオール女子選手による開催でも売り上げはそれ以外の普通開催にも劣らなかったことから、その企画が賞賛されたこともあった。

女子競輪においても特別競輪(現在で言うGIレースに相当)があり、当初は全国争覇競輪、高松宮妃賜杯競輪、全国都道府県選抜競輪、競輪祭にて女子の部が開催されていた。

だが、1957年の第12回全国争覇競輪の女子の部が直前になって突如中止されて以降は徐々に縮小され、競輪祭は1958年の第4回大会以降では実施されず、また全国都道府県選抜競輪でも1962年の第19回大会が最後となり、女子競輪が廃止された1964年時点では高松宮妃賜杯競輪のみとなった(各大会の優勝者はそれぞれの項目を参照のこと)。

畑田美千代が田中和子に取って代わって優勝した1956年の第11回全国争覇競輪あたりまでが女子競輪の人気のピークであっが、後述の理由で次第にその人気は下火となり、多くの競輪場が女子競輪の開催に及び腰となっていった。

 

7レース




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 4 黒河内 由実   10.1   捲乗り内伸
2 3 伊藤 のぞみ 1/4車輪 10.4   絶好番手交
3 6 加瀬 加奈子 1/4車輪 10.5   B 前受先行し
4 2 尾崎 睦 タイヤ差 10.2     捲り及ばず
× 5 1 中村 由香里 1/2車身 10.0     後方追走し
6 5 岡村 育子 大差       加速に離れ

 

8レース




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 7 五日市 誠   10.0   巧牽制差す
2 4 佐藤 龍二 1/2車身 9.8   後方踏上げ
3 1 佐藤 博紀 微差 10.2     脚使い捲る
× 4 3 宿口 潤平 1車身1/2 10.3     牽制及ばず
  5 5 佐々木 省司 1車身 10.1     張り飛んで
6 6 吉田 昌司 1車身 10.6   B 打鐘先行し
7 2 川越 勇星 2車身 10.5     再三牽制受
 

猫のタマ猫がチビ黒に追われて柿の木に登る

2022年10月25日 13時09分55秒 | 日記・断片

早朝散歩、一番の冷え込みは、先日で気温7度だった。

野良猫のチビ黒は、通称<グリーンベルト>で餌を期待して西田さんを待っている。

タマは、何時も自宅の付近に待機している。

タマが、チビ黒に追われて、柿の木に登り逃げ込む。

チビ黒は木に登れないのか?道路でタマを見上げていた。

午前5時20分まだ外は暗い。

猫のタマが柿の木に逃げ登る

 

 


問題解決の糸口

2022年10月25日 12時45分48秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

1)新機軸を提案する。
2)先手を打つ
3)仮設を立てる

今までにな違った工夫やりかた。
独自性の強い新しい思いつきを提案する。

先手を打つためには、起こりそうな事態に備えておくことだ。
その結果、他より早く行動を起こしていける。

仮設を立てるためには、よく観察し、課題の背景にあるものが何かを推察する。
その結果、解決の糸口が見えてくるだろう。

今こそ、あらゆる人が知恵を出し合い難問解決へ挑戦していく時ではないか。
こういう危機の時代こそ、「考えて動く」という前向きな姿勢が効果を上げ、厳しい状況を乗り越えるヒントを手にすることんいなる。

経済ジャーナリスト・上妻(こうづま)英夫さん


宗教とはなにか?

2022年10月25日 11時52分12秒 | 沼田利根の言いたい放題

どの宗教も同じなのか?

創始者の法・哲学・理念を受け継ぐ教え、言わば<生活信条>であり<生活の法則>。

それは超越的な教えでもあり、歴史、伝統、文化などとも深く結びついている。

だが、人間の「生き方のための宗教」と定義すれば、観念でも、抽象論でもない。

最終的には、「心の問題」でもある。
そこで、多くの国民に関わっている。

「宗教は毒」と忌み嫌う人もいるが、信じるか信じないかの、問題に帰着する。

「信じる人は救われる」とは、核心を突く指摘である。
つまり、宗教が自身の生き方の規範となっていれば、希望の指針ともなるだろう。

いずれにしても、人間は、<何かを信じて生きている>存在なのだ。


利根輪太郎の競輪人間学 荒れに荒れた寛仁親王牌

2022年10月25日 04時52分42秒 | 未来予測研究会の掲示板

  GⅠ前橋競輪 寛仁親王牌・世界選手権記念

「どうにもならない」「車券が外れるばかりだ」競輪ファンたちの嘆きや
愚痴の声が聞かれた寛仁親王牌だった。

12レース決勝戦は、吉田拓矢選手への思入れから、7番を軸に車券を買った。

是非、グランプリレースに乗ってほしいと期待したのだ。
せめて、2着の賞金が入れば、ランキング12位から賞金が積み重なって、滑り込みで出場が見込まれただろう。
残念だったのは、稲川翔選手に外に張られて失速する。
走る格闘技の競輪、展開のアヤと諦めるほかなかった。


1レース 7-5-8 1万2,620円(33番人気)

2レース 9-6-3 2万5,280円(84番人気)

3レース 5-8-6 23万8,880円(455番人気)

4レース 2-6-1 1,440円(1番人気)

5レース 5-2-6 3万4,350円(117番人気)

6レース 7-4-5 13万2,330円(310番人気)

7レース 2-7-3 2万8,750円(83番人気)

8レース 6-1-9 3万9,520円(145番人気)

9レース 7-4-2 4,570円(7番人気)

10レース 2-3-9 2万260円(74番人気)

11レース 7-1-3 2,090円(6番人気)

12レース 9-3-5 2万8,390円(113番人気)

 




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 9 新田 祐大   9.5    
  2 3 守澤 太志 1/4車輪 9.5    
3 5 松浦 悠士 1/2車身 9.6      
4 8 稲川 翔 3/4車輪 9.7      
× 5 1 古性 優作 3/4車輪 9.9   B  
6 2 平原 康多 1/2車身 9.7   S  
7 7 吉田 拓矢 1/2車身 9.9      
  8 6 井上 昌己 1車身 9.8      
  9 4 小松崎 大地 9車身 10.6    

 

戦い終わって

戦い終わって写真

 腹を括って逃げたのは古性優作。

3番手に追い上げる形になった吉田拓矢-平原康多のまくりは稲川翔の仕事もあり進まない。

内にコースを取った松浦悠士、さらに内は新田祐大。大外をまくり上げる守沢太志とバックは大混戦。その中、優勝を飾ったのは最短のインコースを踏み込んだ新田でグランドスラム達成。6つのG1制度での達成は神山雄一郎に続く2人目の達成となった。

「車間を切ってタイミングを計っていたら、見えないところで吉田君が来て詰まってしまい…。そのあとも1周ずっと内に詰まって、最終バックもすごいことになってしまったんですが、最後はイチかバチか何も考えず踏み込みました。守澤君のスピードがよかったので、差されてしまったかな、グランドスラムは簡単じゃないなと感じていたんですが、ゴールしてから1着だ1着だと言われてそうなのかと。(ゴール後は失格審議になり)去年のイメージを払拭できなくて、また結果出なかった、来年かという感じでした。(決定放送が出た時は)どちらかというと当事者というより第三者的な目線でしたね。観客的な感覚でゾワッとしたっていうか、鳥肌が立ちました。自分はあまり昔の思い出を語らないんですけど、ここで初めてG1の決勝に乗って、そのとき山崎(芳仁)さんが優勝して、岡部(芳幸)さんが2着に入って、そういう思い出の地での優勝は感慨深いものがあります。(年末のグランプリについては)ぶっちゃけ、ちょっと想像していませんでした。ダービーで怪我をしたので、12月に手術する予定でいたんですが、それを早めるか遅くするか、これからスケジュール調整します」。
 まくりに転じて惜しくも2着の守沢は「新田君が内に入って、番手だったら付いて行ったけど、3番手で付いて行ってはチャンスはないと判断して、申し訳ないけど外を踏ませて貰った。バックからはずっと(優勝の)夢をみてた。最後は内に誰か残ってるなと、それが新田君でした。自分としてはあれが限界。稲川さんのあおりの分だけ届かなかったのかな。G1の2着は初めてです」。


 平原の内に潜り込んで踏んだ松浦が3着。

「古性君が駆けるタイミングで踏み合ってくれるかもとと思い(吉田君を)見送った。そしたら(3番手に)スポッと入られて…。焦って追い上げて平原さんが内を空けたので行けるところまでと踏んだけど、古性君が内を空けたのは想定外。見せ場は作れたけど、それだけに(優勝を)取りたかった。オレが取れば(清水)裕友のグランプリ出場も近づいてので残念」。