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参政党を解剖する──信者化・陰謀論・民意の代弁の間で

2025年07月18日 06時56分36秒 | 社会・文化・政治・経済
2025年7月17日 
 
第1章|参政党とは何者か?

1-1「知る人ぞ知る政党」から、「街頭演説で泣かせる政党」へ

2022年の参議院選挙。
当時、多くの人が耳にしたこともなかった「参政党」という名前が、SNS上で急速に拡散される現象が起きた。
• 「演説で泣いた」
• 「初めて政治が心に刺さった」
• 「誰も言ってくれなかったことを言っている政党が現れた」

こうした感想とともに、YouTubeやTikTokで演説動画がシェアされ、若者を中心に“空気のような支持”が広がっていった。

1-2結党は2020年、理念は「教育・食・国守り」

参政党が正式に結党されたのは2020年。
比較的新しい政党でありながら、独自の理念を明確に打ち出している。

主な3つの柱は次の通り:
• 教育の再建:「自分で考える力を育む」教育を推進
• 食と健康の確保:安全な食と医療を国民に取り戻す
• 国を守る政治:日本の主権と安全保障を見直す

これらは一見して「まとも」で「良さそう」に聞こえる。
だが、言い換えれば誰も反対しづらい抽象的な理念でもある。

「右でも左でもない」という“脱イデオロギー”の看板

参政党はしばしば、「保守政党」「極右」「陰謀論政党」などとレッテルを貼られるが、彼ら自身は「右でも左でもない。国民の声を直接届ける政党」と自称している。
これは、既存政党が担ってきた“保守vsリベラル”の対立軸から距離を取ることで、
政治的に中立に見せる戦略でもある。

だが、実際の主張には
• 憲法改正への肯定
• ワクチン・医療行政への疑念
• グローバリズム批判
• 自給自足・地方分権重視

といった要素が強く、思想的には明確に“右寄り”の色合いがある。

政治というより、“覚醒ムーブメント”としての側面


参政党を支持する人の言葉には、次のような特徴がある。
• 「やっと真実を知った」
• 「目が覚めた」
• 「他の人はまだ気づいていない」
これらは、宗教的な目覚めや啓蒙に近いニュアンスを持っており、政治団体というよりも“社会運動”“覚醒コミュニティ”のような相貌を帯びている。

このムーブメント性が、多くの既存政党とは異なる空気をつくり出し、それゆえに人を引きつける一方で、警戒も招いている。

まとめ:「正体のない正論」が、人を惹きつける

参政党は、政策よりも“雰囲気”で語られる。

それは、政治というより「信じたくなる何か」。

正しそうな言葉をまとうがゆえに、その中身を疑わずに受け入れてしまう。
だからこそ、この政党の本質は、理念ではなく“なぜ支持されているのか”にこそある。

第2章|なぜ短期間で支持が広がったのか?

「政治なんて興味なかった層」が動いた


2022年の参議院選挙。
参政党は、既存政党がリーチできなかった層──特に政治的関心が低い若者層や既存政党に不信感を抱いていた無党派層の一部に深く刺さった。

特に次のような人々が、SNS上でこう語っていた。
• 「今まで選挙なんて行ったことなかったけど、初めて投票した」
• 「演説を聞いて泣いた。こんなに真剣に日本のことを考えてくれる人がいたのか」
• 「誰も言ってくれなかった“本当のこと”を言ってくれている」
この現象は、政策や公約ではなく、感情レベルで共鳴を起こした“ムーブメント型の支持”だった。


「共感される演説」×「拡散されるSNS」

参政党の最大の武器は、演説力とSNS戦略である。
街頭演説では、党幹部たちが原稿を読まず、感情を込めて語りかける。
• 教育の崩壊
• メディアの偏向
• 国民の“思考停止”への警鐘

こうした話題を「データ」ではなく「熱量」で語ることで、“わかりやすさ”と“自分のこととして感じさせる力”が際立った。

さらにYouTube・TikTok・Instagramで演説動画が次々と切り抜かれ、「バズ」を起こすように設計されたSNS運用が功を奏した。
つまり、“街頭で熱量を生み”、“ネットで拡散する”という新しい政治スタイルが、短期間で支持を拡大させた。


「既存政党への失望」が参政党を押し上げた


参政党が“何を言ったか”も重要だが、それ以上に重要だったのは、他の政党が「何も言ってくれなかった」ことである。
• 自民党 → 長期政権によるマンネリ化・利権体質への不信
• 立憲民主党 → 批判ばかりという印象と、決定力のなさ
• 共産党 → イデオロギー色が強く、支持のハードルが高い
• 維新の会 → 都市部では一定支持があるが、“自分の生活には関係ない”と感じる層も
こうした「どこに入れても響かない」という空気の中で、
参政党の“分かりやすい怒り”と“希望を語るスタンス”は、空白を埋める形で浮上した。


「正しいことを言ってるように見える」言葉の設計


参政党の主張は、シンプルでストレートだ。
• 「子どもたちの未来を守りたい」
• 「教育がおかしくなっている」
• 「利権だらけの政治を終わらせよう」

これらのメッセージは、政治的に複雑な背景を語らなくても“納得感”を与える。
しかし、それゆえに「細部を詰めると曖昧なまま」でも受け入れられてしまう。

つまり、参政党は「理論ではなく“空気と感情”で納得させる言葉選び」が非常に上手い。
これは、逆に言えば“批判に強くない構造”でもある(第6章で詳述)。

そして、今──2025年現在の支持構造へ

参政党は一過性の“泡沫ブーム”と思われていたが、2023年以降も各地で講演会・街頭演説を継続し、2025年現在も一定のコア支持層とSNS拡散力を維持している。

一方で、
• 陰謀論との親和性
• 信者化する支持層
• 外国勢力(ロシア)の関与疑惑
• 過激なアンチ・カルト批判の拡大といった現象が表面化し、今や“熱狂”と“批判”の両極で揺れる政党となっている。

この現象の本質を掘るには、支持者の内面とその構造(=第3章)を深く理解する必要がある。

まとめ:支持を生んだのは、“言葉”ではなく“空白”

参政党が急成長したのは、すごい政策を出したからではない。

それは、他の政党が語らなかった空白を、感情の言葉で埋めたから。
正しさではなく、“言われてほしかった何か”を言ってくれた。
だから今、私たちは問われる。
「正論を求めたのではなく、“救い”を求めたのではないか?」と。

第3章|信者化する支持層の心理──“目覚めた人たち”の内側で何が起きているか

「目が覚めた」「真実に気づいた」という自己定義


参政党の支持者たちは、自分たちのことを「目覚めた人たち」と呼ぶことがある。
それは単なるファンでも、政治的支持者でもない。
• 「本当のことを知ってしまった」
• 「洗脳から解けた」
• 「世の中の嘘に気づいた自分は、もう戻れない」
こうした表現には、一種の“選民意識”と“自己覚醒の快感”が含まれている。
まるで宗教の改宗や、新興スピリチュアルに似た心理構造だ。

「考えているつもり」が思考停止を招く paradox

参政党は「自分で考えよう」というメッセージを繰り返す。
実際、支持者もよくこう語る。

「私は自分の頭で考えて参政党を支持している」

しかし、その“考えた”という内容が、実はYouTubeや演説、SNSで得た情報を「そのまま受け入れた」だけだったりすることも多い。
• 一見、目覚めているようで
• 実は、別の情報源に“思考を委ねている”だけ
この状態は、外側から見ると「思考停止の再演」になっている。

“反対意見”を一切受け入れられない構造

参政党の熱心な支持者ほど、こうした傾向を見せる。
• 参政党への批判 →「利権側の陰謀」「洗脳された人」扱い
• 事実検証の指摘 →「テレビやメディアに洗脳されてるんだよ」
• 冷静な意見 →「お前はまだ目覚めてない」

つまり、反対意見を“敵”か“未覚醒者”に分類して思考から排除するようになる。

この心理は、カルト宗教の信者構造に極めてよく似ている。
批判が入らない構造は、常に“危険”を孕む。


“分断”をむしろエネルギーにする言葉


彼らは言う:
• 「叩かれても気にしない」
• 「正しいことを言えば叩かれるのは当然」
• 「批判されているのは本物の証拠」

このような言葉が“信念強化のための逆説的スローガン”として使われている。
これは、反ワクチン運動や陰謀論支持者にも共通する構造で、
「社会からの否定」をむしろ“信念の証拠”にしてしまう思考のトリックだ。

結果的に、「外部からの批判」すら内部を強化する燃料になってしまう。


なぜここまで「信じたくなる」のか?

人は、真実を知りたいのではない。
「不安に説明を与えてくれる物語」を信じたがる。
• 将来への不安
• 医療・ワクチンへの不信
• グローバリズム・多様性への違和感
• 既存メディアや政党への絶望感
こうした“言語化されていなかった不安”に、参政党は【言葉】と【敵】と【希望】を与えた。
それは「理解できる安心」ではなく、「信じられる安心」だった。


まとめ:「信じる政治」は、いつ“操作される政治”になるのか?

参政党を信じることそのものが問題なのではない。

問題なのは、“信じたい”という欲望が先にあり、それを補完してくれる言葉だけを選び取り、それ以外の世界を拒絶し始めたとき、政治は「信仰」へと変質していく。
そしてそれは、最も操作されやすい状態である。

第4章|陰謀論との関係性──なぜ惹かれるのか?

「参政党=陰謀論政党」なのか?


参政党を語る際、しばしば出てくるのが「陰謀論との関係性」だ。
• 反ワクチン、反マスク
• 食の毒性・医療利権批判
• グローバリズム・SDGs・気候変動の否定
• ディープステート(DS)や裏の支配者層の存在
• メディアや教育による“洗脳”という主張

これらは、主流メディアや学術的コンセンサスからは外れた言説であり、
一部の界隈では「典型的な陰謀論」とされている。

だが、ここで重要なのは、すべてを一括りに“陰謀論”と切って捨てることの危うさである。


陰謀論は“ウソ”ではなく“物語”である

そもそも陰謀論とは、単なるウソ話ではない。
それは、「世界の複雑さや不安を、シンプルな物語で説明してくれる装置」だ。

たとえば:
• なぜコロナでこんなに生活が制限されたのか?
→「ワクチン利権と人口削減計画だ」という物語が与えられる。
• なぜメディアは特定の論調ばかり流すのか?
→「支配層が情報を操作しているから」という筋書きが生まれる。
人は、不確かな世界よりも「筋が通った物語」を信じたくなる。
だからこそ、陰謀論は理屈ではなく、感情の安心に訴える情報として機能する。

参政党は“陰謀論に頼る”のではなく“通路になっている”

参政党が主張している内容は、すべてが荒唐無稽なものではない。
• 教育への疑問
• 食品添加物や農薬への不安
• 医療のビジネス化に対する疑念
• グローバリズムに対する距離感

これらは、現代の生活に実際に存在する“漠然とした不信感”に根ざしている。
その不信感に“言葉”を与えたのが参政党であり、結果的に、陰謀論の世界と接続する「通路」になってしまっている。
つまり、陰謀論を全面的に掲げているというよりも、“陰謀論が入り込める穴”が党の構造に空いているということだ。

なぜ参政党支持者は陰謀論を信じやすくなるのか?

参政党の支持者は、自民党や立憲の支持層と比べて次のような傾向がある:
• 「テレビ・新聞は信じない」
• 「自分で調べた情報のほうが信用できる」
• 「大多数の意見は疑ってかかるべきだ」
これらの思考は、一見リテラシーが高いようにも見えるが、裏を返せば、「公的情報に対する強い不信と、情報の孤立化」でもある。
そしてその空白に、
• “語り口が滑らかで”
• “自分の不安を肯定してくれる”
陰謀論的コンテンツが入り込む。
そうして、「真実に近づいているつもりで、ますます極端な情報に引き込まれていく」構造が完成してしまう。

陰謀論を「信じる人」が愚かなのではない

ここで強調しておきたいのは、陰謀論に惹かれる人が「バカ」なのではない、ということ。
• 社会に対する不安
• 政治家への不信
• 科学に対する理解不足
• 孤立感と無力感

こうした“説明されなかった痛み”に寄り添ってくれる存在が、
陰謀論であり、参政党だったのだ。
つまり陰謀論は、“共感”と“救済”を同時に提供するパッケージであり、
それがいかに危うくても、信じたくなるだけの背景があるということだ。

まとめ:陰謀論とは、「思考停止」ではなく「思考の補完」である

陰謀論は、思考を停止させるものではない。
むしろ、「理解したい」「納得したい」という欲望を満たすために生まれる」思考の補完装置である。
参政党は、その装置を“政治の言葉”で提供した。
だから、信じる人が悪いのではなく、「説明しない政治」が放置してきた空白こそが、陰謀論を育てたのだ。

第5章|参政党とロシア──「外国勢力の介入」説の検証

SNSを騒がせた“ロシア関与”という疑惑

2025年に入り、X(旧Twitter)やYouTubeの一部言論空間で、
「参政党の背後にロシアが関与しているのでは?」という主張が拡散された。
• 特定のインフルエンサーが「親露系ネットワークとの繋がり」を示唆
• ロシア寄りの保守思想と参政党の主張の一致
• 一部YouTube番組での「海外勢力との連携」発言の切り抜き
• 国際政治に詳しい学者による「ロシア情報戦との親和性」指摘

など、断片的な“状況証拠”が積み重ねられ、
参政党に対する「情報操作の駒ではないか」という疑念がSNS上で飛び交っている。


「ロシアが介入している」側の主張

この疑惑を唱える側は、次のような論拠を挙げる:
• ロシアは世界中で「情報戦」を展開しており、民主主義国の分断を誘導している
• 特に欧米・日本では、反ワクチン・反グローバル・反メディアの動きと接続しやすい
• 参政党はこうした文脈と思想的に重なる
• 実際にロシア政府系メディアが参政党関係者の発言を引用している事例がある
• 神谷宗幣氏が過去に「ロシアを評価する」ような発言をしていたとされる
ただし、これらはあくまで「思想的共鳴」や「言説の一致」レベルであり、
資金提供・組織的連携などの“直接的な証拠”は現時点で確認されていない。

ロシアが“好む構造”と参政党の一致点


以下のような参政党の主張は、ロシアの情報戦略と親和性が高いとされる:

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画像

もちろん、これは「ロシアの意図に沿って動いている」という意味ではなく、
ロシアが“勝手に利用しやすい思想枠”に参政党が重なっているということだ。

参政党自身の見解と“沈黙”

参政党は、外国勢力との関係性について明確に公式な声明を出していない。
過去には「自主独立の政治を目指す」と語っており、“日本の主権を守る”ことをアイデンティティの一つとして掲げている。

そのため、ロシアとの“思想的接近”が指摘されたとしても、党側は「共鳴しているわけではなく、日本独自の立場から発信している」と捉えている可能性が高い。
ただし、SNSや演説で一部過激な主張を行う支持者の発言が“意図せずプロパガンダ的に機能している”ケースがあるため、その“情報リスク”には自覚的であるべきだとも言える。

なぜこのような疑念が出てくるのか?

背景には、日本全体の空気として、
• 「陰謀論や極端な主張が広がっていることへの警戒」
• 「外国勢力が情報戦を仕掛けている」という国際情勢(米・露・中)
• 「国内の極端思想がどこかの傀儡ではないか」という不信感の高まりがある。

その中で、「共感しやすい主張」と「情報戦で使われやすい主張」が重なってしまったのが、今の参政党だ。
まとめ:「ロシアと繋がっている」のではなく「ロシアに“使われうる”思想を持っている」

参政党がロシアから何かを受け取っている証拠は、今のところ存在しない。
だが、主張の一部がロシアのプロパガンダと一致していることも確かである。

問題は“繋がりの有無”ではなく、

「誰の利益に繋がる情報を、日本の政党が無意識に発信してしまっているのか?」という視点だ。

情報戦においては、“利用されるつもりがなくても利用されてしまう”ことが最も怖い。

第6章|SNSで叩かれている理由──宗教化・排他性・反論不能構造

「参政党=宗教?」というレッテル

2023年頃からSNSでは、参政党を批判する声が徐々に強まった。
特に目立つのが以下のような言い回しである。
• 「参政党ってまるで宗教」
• 「信者みたいに盲目的」
• 「議論が成立しない」
• 「反論すると攻撃される」

もともと注目を浴びたのが演説やSNSだっただけに、その場での支持者の態度や反応も多くの人に可視化されてしまった。
つまり、批判の対象は党の政策よりも、支持者コミュニティの“空気”そのものだった。

「他を敵とみなす構造」が露呈していく

参政党の一部支持者は、次のような傾向を示すことが多い:
• 党への批判=敵対勢力の陰謀
• メディアの否定=真実に近づいている証拠
• 反対意見=洗脳された人間、または覚醒していない人

これにより、SNS上の議論はすぐに「レッテルの貼り合い」になりがちだ。
たとえば、
A「この主張はさすがに極端では?」
→ B「まだあなたは気づいていないだけですよ」
→ C「自民党の回し者か?」

このような“会話にならない会話”が積み重なり、外部からは「カルト的だ」と見なされるようになる。

「議論が成立しない」ことへの絶望感


参政党の批判者たちが抱える最大の不満は、議論にならないことだ。
• 事実を提示しても「陰謀」だと片付けられる
• 誤りを指摘しても「あなたは洗脳されている」で終了
• データや論拠より“感覚”が重視される

この構造は、反ワクチン運動やスピリチュアル業界でも見られるが、
「政治政党」がこの構造を持ってしまうことの“怖さ”が、SNSで強く問題視された。
つまり、「民主主義的な対話が通じない政党なのではないか?」という不安が広がったのだ。

実際の信者化と、外からの“そう見えてしまう構造”

もちろん、すべての参政党支持者が排他的で議論拒否型なわけではない。
しかし、SNSという場では
• 声が大きくて極端な人の発言が目立つ
• 複雑な立場の人は発信しづらい
• 結果的に「信者的な人」のイメージが先行する
このような“印象の偏り”が起きやすい。
だが同時に、党側がそうした過激派を明確に制御・注意していないことも、
“半分は実態、半分は誤解”という曖昧な批判構造を生み出している。

“善意が暴走する瞬間”の怖さ

支持者たちの多くは、本気で「世の中をよくしたい」と願っている。
それが悪意ではなく善意であることこそが、厄介な構造だ。
• 「気づいていない人を救いたい」
• 「この国の未来を変えたい」
• 「子どもたちを守りたい」

こうした想いが強いからこそ、反対意見は「邪魔者」に見える。
そして、善意に裏打ちされた排他性は、最も強固で崩れにくい。
その結果、「他者と議論できない政治」が生まれてしまうのだ。
まとめ:叩かれているのは、主張ではなく“構造”である

参政党がSNSで叩かれている理由は、主張が極端だからではない。
叩かれているのは、「反対を排除し、疑問を拒み、信じすぎる構造」である。
そしてその構造は、党ではなく、私たち自身の中にも存在する。
SNS社会が可視化したのは、参政党の異質性ではなく、
“対話の困難”というこの時代の病そのものだったのかもしれない。

第7章|それでも支持される理由──“言ってくれた”感情の力

論理では否定されても、感情では否定できない

参政党の主張には、科学的根拠に欠けるものや、過激な陰謀論的言説が含まれる。
SNSでも、メディアでも、多くの専門家がこれを「非合理的」と批判してきた。
だが──
それでも、参政党を支持し続ける人は減っていない。
なぜか。
答えは単純である。
それは、「言ってくれてありがとう」という感情の力だ。

参政党が届けたのは“政策”ではなく“代弁”

• 「教育が壊れてるのに、誰も言ってくれなかった」
• 「メディアが腐ってると感じてたのに、みんな黙ってた」
• 「政府の対策が不安だったのに、不安を口にするだけで叩かれた」

こうした声なき声に対し、参政党はこう言った:

「おかしいと思っていいんです」
「声を上げていいんです」
「あなたは間違っていない」

この“代弁”によって、
参政党は「投票したい政党」ではなく、
「理解してくれた人たち」として認識された。

支持されるのは、「真実」ではなく「安心感」

私たちは、政治家に“正しさ”を求めるふりをしながら、実際は“安心”や“共感”を求めている。
参政党はこうした本能的欲求を見抜き、
政策よりも「感情的肯定」「不安の言語化」に力を注いだ。

たとえば、

画像

このように、“論理の言葉”ではなく、“感情の言葉”で語るからこそ、
批判されても、心の奥に届いてしまう。

“極端に見える声”に宿るリアル

メディアやSNSでは、しばしば参政党支持者は“過激派”のように扱われる。
だが、実際の支持者の多くはごく普通の人々である。
• パートで働く母親
• 農業を営む父親
• 大手企業を辞めた30代男性
• 教育や医療に不安を感じている主婦層
彼らが語る内容の中には、過激な陰謀論もあるかもしれない。
だが、その根底にあるのは──
「この国の未来を、真剣に心配している」というリアルな生活感情だ。
それが、他のどの政党よりも“素直に、感情で”語られたからこそ、共鳴が起きた。

共感されるのは「完璧な正しさ」ではなく「不完全な本気」

参政党は、論理的には穴だらけで、整合性もよくない。
だが、そこにあるのは“熱量”と“本気”である。
「不器用でも、嘘っぽくなくて、信じたくなる」
そんな声が、支持者の間からよく聞かれる。
今の政治に足りなかったのは、“整った言葉”ではなく、“剥き出しの心”だったのかもしれない。

まとめ:「言ってくれた」ことは、それだけで強い

正しさより、温度。
論理より、代弁。
「わかるよ」と言ってくれた政治は、たとえ間違っていても、“支えになってしまう”。
参政党は、それを日本で最も上手にやった政党の一つだ。
そしてその構造は、簡単に否定することなどできない。

第8章|参政党は“希望”か“麻酔”か──私たちが向き合うべき問い

希望を与えた政党、それは間違いない

参政党は、多くの人に「言葉にならなかった不満」や「見過ごされてきた感情」に寄り添ってきた。
• 教育への怒り
• 医療への疑念
• 社会制度への不信
• 日本という国に対する無力感

それらを政治の言葉で、真正面から語ってみせた。
それはまぎれもなく、「希望の提供」だった。
しかしその希望は「思考停止」でもあった

だが、その希望の中には、“思考停止”の種も含まれていた。
• 根拠がなくても「それっぽく」響く言葉
• 問題の責任を単純化し、「敵」を作って安心させる構造
• 反対意見を排除し、閉じた世界に安住させる仕組み

これらは、「痛みの説明装置」としては優秀でも、
「解決のための装置」としては脆弱だった。

参政党が与えたのは、「希望」だけでなく、「思考しなくてよいという安堵」でもあった。

それでも、必要だったのかもしれない

しかし、こうした“麻酔のような政治”が生まれる背景には、
私たち自身の「説明されなかった痛み」がある。
• 「不安を感じてはいけない」
• 「文句を言ってはいけない」
• 「考えを口にしてはいけない」
そうした空気に長く晒された社会では、まず“安心できる言葉”にすがることが必要だったのかもしれない。
それが参政党だった。
本当の希望とは、「不安と向き合える力」かもしれない

本当の希望とは、こうかもしれない。
• 世界は簡単ではない、と知っても折れないこと
• 不安や矛盾を、簡単な答えで逃げずに抱えること
• 「それでも前に進もう」と思えること
参政党は、確かに多くの人を動かした。
けれど、その希望が「現実逃避ではないか?」という問いからは逃れられない。

まとめ:信じる自由の先にある「疑う力」

信じることが悪いのではない。
だが、「疑うことをやめた瞬間に、信じる力は危険な武器に変わる」

参政党は、“信じたい人たち”に言葉を与えた。

そして私たちは今、「その言葉が何を生み出したか」を見つめている。

希望だったのか。
麻酔だったのか。

その答えを出すのは、今も、これからも──私たち自身だ。

結論|信じる政治との付き合い方

「信じること」は、どこまで許されるのか?

政治とは、突き詰めれば「信じる行為」だ。
• 政策を信じる
• 候補者を信じる
• 未来を信じる

誰も正解など知らないまま、私たちは“誰かの言葉”に、税金と人生の一部を託している。
だからこそ、「信じる政治」はいつも危うい。

参政党が照らしたもの──社会の“感情の断絶”

このnoteを通して浮かび上がったのは、参政党という存在そのものよりも、それを生み出した社会の“構造”だった。
• 疑問を口にできない空気
• 不安を表現できない風潮
• 誰も「わかる」と言ってくれなかった現実
その空白を埋めるように、参政党は現れた。
それは脆く、不器用で、ときに危うい方法だったかもしれない。
だが、「聞いてくれた」「言ってくれた」という感情の肯定が、どれだけ人を救ったか
それを軽視することは、誰にもできない。

問いは、ここから始まる
私たちは、なぜ「信じたくなる」のか?
そして、その信じる力は、誰のために使われているのか?
このnoteが、参政党という一政党の話を超えて、「信じることと、疑うことのあいだ」にある政治のリアルを考えるきっかけになれば幸いである。

 

 
 
 
 
 

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