ーマン夫人となったクララに、手紙でシューマンはこう書いている。
「あなたは以前ぼくのことを子供みたいなところがあると言いましたね。その言葉がぼくの心の中に残っていて、羽をはやして
飛び回り、いつのまにか30曲ほどの小品ができました。その中の12曲を選んで「子供の情景」という曲をつけました」
実際は一曲増えて13曲になったが、シューマン自身はこの曲を気に入っていたようで、「このピアノ曲集は、ピアノの大家にと
っては面白くないかもしれないけれど、あなたはきっと興味を持ってくれるでしょう。ぼくはこの曲集を誇りに思っていますし、
これを演奏すると、特にぼく自身大きな感銘を受けるのです」
第七曲の「トロイメライ」は特に有名だが、シューマンの矛盾するような多様な個性に、自身はこどもないなかった、子供の世
界への憧れが、詩人の幻想や回想を織り込んで表現されている。シューマン自身は、「この曲集は、子供のための曲ではなくて、
むしろ年とった人の回想であり、年とった人のためのものです」と述べている。曲は、「見知らぬ国より」で始まって、「詩人は
眠る」で終わる。シューマンのような音楽家にとっては、まさに内面への「見知らぬ国」へ分け入ることが音楽を作ることなのだ
と思う。音楽はそんな異郷の感性で満ちている。
シューマンにとって、「子供の世界」とは何であったのかは、わからない。ただ、ニーチェが言うように、「真の男性」には
子供が住んでいて、女性はそれを発見すべきだというのは、シューマンとクララの関係には当てはまっているようには思う。
ニーチェの「ツァラトゥストラはこう語った」の中に、こんな表現がある。
「かつてわたしは創造者として、道連れを捜した。わたしの希望の子どもをさがした。しかし、どうだろう、そうした子どもたち
は、まず自分で創造するものでなければ見つかるものではないとわかった・・・・・まことに、ひとが心底愛するのは、ただ自分
の子どもと、仕事だけだ。そして自分自身への大いなる愛があるとすれば、それは子どもを懐妊している徴候にほかならない。
わたしはこのことを悟った。まだ、最初の春にめぐり合ったばかりだ・・・・・」
(第三部 「来ては困る幸福」)
一種誇大妄想的とも言えるような過激な言い回しであるが、ニーチェやシューマンのような非常に霊感にあふれた、芸術家の
中でもとりわけ創造的なタイプには当てはまると思う。ただしこの種の人間は通常の一般社会ではなかなか受け入れらえない。
一般人の感覚ではなかなか理解できないからだ。事実、この二人は最後には精神を病んで、発狂した。
サッカー選手の中にこんな天才的なひらめきで観客を凍りつかせるようなプレーをする選手がいたら面白いと思う。アフリカ
とか、コロンビアとか、ペルーの田舎にでもそんな才能を持つ選手は眠っていて、プロにはなれないで、偉大なるアマチュアと
してどこかで走り回っているかもしれない。ナショナルチームに入ってワールドカップには出られなくても、彼の天才は変わらな
いのかも・・・・。くだらないプロよりは、偉大なアマチュアでいるほうがましかもしれない。
アントラーズもそんな埋もれた天才を世界のどこからか見つけてきて、たった一人でJリーグクラスのディフェンスをいとも
たやすく破るような選手を見たいものだ。そういうレベルの選手がいれば、木村主審がどうだとかなどと言う気にもならないだろ
う。彼が日本のサッカー界で生き残って堂々としているのは、日本のサッカー界がそういう存在を認めてしまう風土だからに他な
らない。せいぜいサポーターとしては、彼がまたアントラーズ戦で笛を吹く時は、さんざん野次って罵倒するくらいのものだ。
彼がいかに能力のない審判でも、町を歩いている時に、いちゃもんをつけて殴ったら、捕まってしまいますから(笑)
法的には犯罪ではないにせよ、試合をめちゃくちゃにして、お金を払って楽しみにしてきたサポーターを怒らせ、不快にさせる
のは、一種の犯罪なのかもしれませんね。サッカーにもサッカー裁判所みたいな機関を作って、あまりに悪質なプレーをする選手
や、ひどいジャッジを繰り返す審判には、制裁を加えるのもいいかもしれません。
シューマンの「子どもの情景」は、子どもの純粋な世界への憧れで作った作品ではあるが、不思議なことに女性ピアニストでは、
あまりいい演奏はない。それはシューマンの子どもへの眼差しが、観念的なものだからだと思う。女性は生物学的に子どもを産
るので、子どもに対して観念的にはなりようがなく、もっと現実的だからだろう。だからアルゲリッチの子どもの情景は、あまり
にも生々しくて、生臭く感じる。内田光子のように理知的なタイプだと、かえってインチキ臭くなってしまうのが、シューマンの
難しいところだ。仲道郁代の若い頃の演奏や伊藤恵の方がずっと素直で好ましいと感じる。ホロヴィッツの「子どもの情景」は、
音そのものに純粋な美への憧れのようなものがあって、シューマン独特の音色が高い技術と叙情のバランスで鳴り響いている名演
だと思う。
山村 「あの木村さん、もうアントラーズの試合では笛を吹かないでもらいたいです」
小笠原 「あ、それはもう大丈夫だよ」
山村 「え!なんでですか?」
小笠原 「日本サッカー協会が彼を数年間、永平寺で修行させることに決めたらしい」
山村 「あはははは、それはいいっすね!坊主の修行するんですか」
小笠原 「そうだよ。一番下っ端から・・・・・」
山村 「最高じゃないっすか!三日と持たないでしょうね」
小笠原 「たぶん」
山村 「でも、サッカーの審判の資格に禅寺で修行三年とかいうのはいいですよね」
小笠原 「そうだね。下座心が身につくかも・・・」
山村 「審判は謙虚じゃなくっちゃね!」
小笠原 「般若心経の遠離一切顛道夢想って言葉、聞いたことある?」
山村 「おんりいっさいてんどうむそう??なんっすか、それ?」
小笠原 「悟っていない人間は、現実を逆さまに見ているってことだよ」
山村 「え!そうなんっすか?」
小笠原 「そうだよ」
山村 「でも、主審の木村は完全に現実を逆さまに見ていましたよね」
小笠原 「そうだね。でもあれが僕たちを拡大した姿なのかも」
山村 「・・・・・さすが、小笠原さんは深いっすよ。柴崎にも聞かせてやりたいなあ・・・・」
柴崎が向こうから、深刻な顔をしながらやって来る。
柴崎 「恐怖がすべての禍と苦悩のみなもとだ」
小笠原 「え!!!」
山村 「あれ、柴崎さん、もう悟ったんですか」
柴崎 「恐怖を生み出す心のメカニズムを解明せよ」
小笠原 「・・・・・確かに君は俺の後継者だ」