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春が来た

米国参戦の伏線となった 高速豪華客船「ルシタニア号撃沈事件」

2011年12月30日 | 戦争
第一次世界大戦(1914年~1918年)においてアメリカ合衆国は、イギリス・フランスなど同盟国から参戦の働きかけがあったものの、長い間の「モンロー主義」(合衆国がヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱したアメリカ外交の基本姿勢で、第5代大統領ジェームズ・モンローが年次教書演説で発表した)に基ずき、ヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取っていた。 しかしこの方針を変えるきっかけとなったのが、1915年5月7日イギリス船籍の客船「ルシタニア号」が、南部アイルランド沖でドイツ海軍潜水艦による魚雷攻撃を受け沈没した事件。

イギリス・キュナード・ライン社所有の豪華客船 ルシタニア(31550トン)が竣工したのは1907年、、同じくキュナード社が建造した「タイタニック号」が処女航海の大西洋でで氷山に接触して沈没し,1513人の犠牲者を出したのはそれから6年後の1912年4月14日。 ルシタニアが建造された当時、ブルーリボン賞をめぐる客船のスピード競争がイギリスとドイツの間で繰り広げられていた。 この賞はドイツが独占しており、イギリスはこれを取り戻そうと必死であった。 1907年10月ルシタリアは東回り航路でブルーリボン賞を奪う、記録は23・61ノット(43・7km/h)。 世界最速として認められたルシタニアは、第一次世界大戦中においてもアメリカ合衆国~イギリスを結ぶ定期船として運行され続けられた。 

1915年5月1日、最後の航海となるルシタニアは、1257人の乗客と乗組員702人の1959人を乗せ、ニューヨーク港54番埠頭から出航した。 それ以前の4月22日、ドイツ大使館は新聞に次のような警告文を、ルシタニアの広告と並んで掲載していた。 「大西洋の航海に出られる渡航者の皆様はドイツ帝国と、イギリス並びにその同盟国との間に戦争状態が存在することを認識して下さい。 すなわち戦場はブリテン島の周辺海域も含みます。 ドイツ帝国政府からの公式通達によれば、イギリスとその同盟国の国旗を掲げた大型船は攻撃対象となります。 イギリスとその同盟国の船に乗って戦場である海域に乗り出す場合も同様であり、その危険は自分自身でご承知ください。」 

警告文は乗客・乗務員に大きな衝撃を与え、ターナー船長はルシタニアがいかに高速であるかを説明し、Uボートに追いつかれて攻撃される心配はないと説得して、ルシタニアは2時間遅れて出航している。 5月7日、大西洋を無事通過し南部アイルランド・ケープクリア島沖48kmを航行中のルシタニアを、Uボート「U-20」が発見、4時10分、霧のため18ノットに減速したルシタニアに向けて2本の魚雷が発射され、1本が右舷ブリッジ直下に命中、僅か18分で沈没したため1198名の乗客が犠牲となった。 その中には100人の子供や赤ん坊が含まれ、さらに139人のアメリカ人のうち128名が死亡したため、アメリカ側は激怒し、国民の反独感情は高まる。

しかしウイルソン大統領はヨーロッパの問題に関わることを拒む、国民がどれほど怒っても当時の合衆国には戦争準備ができていなかったからだ。 参戦への直接的引き金となったのはドイツの「ツインメルマン電報事件」と「無制限潜水艦作戦」で、1917年4月6日アメリカ議会は第一次世界大戦への参戦を承認する。 5月にはアメリカ軍師団が前線に投入され、夏までに毎月30万人の兵士が輸送された。 総兵力210万人のアメリカ軍の登場で、それまで均衡を保ってきた西部戦線に大きな変化が生じ、1918年11月11日午前11時、ドイツの降伏で戦争終結。 「アメリカ参戦のためにルシタニアは利用された」という説が流れる中で、当時のイギリス海軍大臣・チャーチルは語る。 「死んだ赤ん坊は10万の兵に勝る」 と。  
  




































 


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