カキぴー

春が来た

「ただでは死なぬ、がん細胞」 がん再発に関する考察

2012年03月30日 | 健康・病気
ここに使わせてもらったタイトル「ただでは死なぬ、がん細胞」は地方紙の健康覧で眼に留まったものだが、がん再発のメカニズムを明らかにした最新の「研究成果」を、見事に一言で表現してて秀逸。 細胞は死ぬとき、ただ、死んでいくわけではなく、周囲に増殖を促す新しい物質を放出していることを、順天堂大学医学部・大学院医学研究所研究科「中野裕康」准教授らが見つけ、アメリカ・科学振興協会(AAAS)発行の世界的に権威ある学術雑誌「サイエンス」の姉妹誌、「サイエンスシグナリング」の最新版に発表したもの。 

中野准教授らは、体内の細胞の一部が死ぬとき活性酸素を周りに放出し、生理活性物質のサイトカインの一種、「インターロイキンILー11」を誘導していることをマウスの実験で確かめた。 このIL-11は生きた細胞に働きかけ、過剰になると癌化に繋がっていた。 中野准教授は、「今回の研究で、死んでいく細胞が、癌化を刺激するIL-11などを周囲に放出している可能性が始めて明らかになり、IL-11はがん治療の新しい標的になりうる」 と期待する。 もともと、死んでいく細胞が周りに増殖を促して補おうとするのは、「生体の恒常性維持」の重要な働きと考えられ、がん細胞も例外ではない。 

つまりヒトの細胞には常に体の状態を一定した状態に維持しようとする機能が備わっており、これによって血圧や血糖値は一定の範囲内に保たれ、胃の中は胃酸により一定のペーハー(PH)に保たれている。 病気とはすなわちそれらの機能が破綻した状態であると言うことができ、高血圧・糖尿病・胃炎(潰瘍)といった病気で表現されることになる。 また一度この恒常性が破綻し病気になった場合でも、それは同様な機能によってまた修復される。 つまり健康の維持および病気の自然治癒は、すべて「生体の恒常性維持機能」が担っているわけ。 

だから抗がん剤や放射線でがん細胞を消滅させた筈なのに癌が再発してくるのは、がん治療の副作用とも言える。 「IL-11は治療の新しい手がかりとなる」と、研究グループはがん治療への応用を探り始めた。 僕はこの地方紙の記事を読んで、癌の再発に関してやっと納得のいく説明ににめぐり合ったように感じた。 また、ヒトの体に寄生して生きている癌は、ヒトの死と共に消滅するわけだが、癌を消滅させようとしてヒトを殺してしまう原理も理解できたので、「癌とうまく共存しながらの延命方法」もまた、理に叶っていることが分かった。

「癌に完治はない、完治の状態(寛解・かんかい)にあるだけ」 と言い切るのは、製薬会社の役員をしていて、末期の前立腺がんから生環したM氏で、手術、放射線、抗がん剤、3つの治療をすべて頑なに拒否し、食事を含めた自然療法で10年以上も延命している。 今も癌は存在していて少し手を抜くとマーカーが上昇し、その都度バランスを調整しながら癌と巧く共存できているのは見事。 座右の銘は、福島県出身の病理学者で、吉田肉腫や腹水肝癌など実験腫瘍学の新たな扉を開いた「吉田富三博士」の 「医事は 自然にしかず 静観待機療法にあり」。  












    


「皇女アナスタシア」をめぐる、ミステリー伝説

2012年03月25日 | 日記・エッセイ・コラム
1904年~1905年にかけての日露戦争で敗北し、1914年に勃発した第一次世界大戦も3年目になったロシア帝国は、戦いに疲弊し国民の不満は極限に達していた。 そして1917年の早春、手に手に武器を持った民衆が冬宮殿になだれ込み、300年・18代続いたロマノフ王朝はその幕を閉じる。 3月革命で樹立された臨時政府によって監禁されたニコライ2世の一家は、最初ペトログラード郊外の宮殿に軟禁されてからソビエト各地を転々と幽閉され続け、最後の監禁場所はエカテリンべルクにある2階建ての大きな屋敷。 館は高い塀と鉄柵で覆われ、すべての窓は白ペンキで塗り潰され、一家は外部との接触を一切禁じらレて厳しく監視される生活だったが、互いに協力しあって生活した。

1918年7月17日の真夜中、寝ているところを叩き起こされた家族は反革命軍が迫っているという口実で地下室に集められ、処刑隊が皇帝一家7人・専従医・女中・料理人・従僕、など11名を殺害した。 皇帝ロマノフ一家が殺されたというニュースは世界を駆けめぐったが、その真相は謎とされ神秘のべールに包まれたままだったため、誰が言うこともなく銃撃を受けた四女のアナスタシア姫(当時17歳)は彼女に好意を持つ兵士に助けられ、ロシア国外で生きているという噂が取り沙汰されるようになる。 アナスタシア伝説は世界中に広まり、それと平行して自分こそがアナスタシアと名乗る女性が10年間で30人も現れたが、歴史上おそらく最も有名な王族偽装者が、ポーランド生まれのアメリカ人女性 「アンナ・アンダーソン」(1896年~1984年)。

1920年氷もまだ溶けきらぬベルリン、運河のほとりに一人の女性が流れ着く。 記憶喪失の自殺未遂者として精神病院に収容されたアンダーソンは、自分がロシアから処刑を逃れ脱走してきたアナスタシアだと名乗り出る。 事実、彼女のロシア宮廷に関する知識は驚くべきもので、また耳の形や足の異常形態などアナスタシアと酷似する身体的特徴が認められた。 さらに旧皇室に関わった者しか知りえなかった子細な事柄についての知識があったことから、ロマノフ家に連なる貴族を含む多くの支持者を得た。 その後彼女はロシア王室遺産をめぐる訴訟を起こすことになるが、ロマノフ王朝の遺産はイングランド銀行の預金だけでも数百億円を下らぬ巨額なものだった。 しかし訴訟は最終的に真偽の確定が不可能として却下された。

ロマノフ家の遺産を手に入れる策略を立てたロシアの元将軍が、街で拾った記憶喪失の女性を存命伝説のアナスタシア皇女にすべく彼女を「本物」らしく仕立て、ついに「皇太后マリア・フョードロヴナ」との「涙のご対面」まで漕ぎつける。 しかしいつしか彼女への想いも「本物」になってしまうという戯曲を映画化したのが、1956年公開のアメリカ映画 「追想」で、主役のイングリッド・バーグマンが2度目のアカデミー主演女優賞を受賞した。 デンマーク王の次女に生まれ、悲劇の皇帝ニコライ2世の母親となった皇太后マリアは、ロシア革命でクリミア半島のヤルタに幽閉される。 妹マリアの幽閉を知った知った姉のアレクサンドラは、マリアとその一家を救うべく奔走し、甥のジョージ5世も戦艦マールバラを差し向け、マリアと娘一家を救い出す。

マリアは姉とロンドンで再会した後、故国デンマークに亡命したが息子一家の死に衝撃を受け、一家の写真を手元において余生を過ごしたが、孫娘のアナスタシア皇女だと名乗る女性が現れても、彼女は会うことを生涯拒み続けている。 1991年ソビエト連邦の崩壊によって公開された記録から、元皇帝一家全員が赤軍によって銃殺されたことがことが確認され、さらに掘り起こされた遺骨が「DNA鑑定」という最新の法医学判定によって、謎に包まれた神秘のヴェールも払拭され、数十年の長きに及んだアナスタシア伝説の夢も幕を閉じた。 (鑑定資料の中には日本に保管されていた「大津事件」の血染めのハンカチも含まれている) しかし今日でもなお、アナスタシアが処刑を逃れ、天寿を全うしたと信じてるロシア人は多い。 ロマノフ王朝への哀悼と過去への懺悔なのかもしれない。 


「ハドソン川の奇跡」と、「バードストライク」

2012年03月20日 | 航空機
ゼネラルアビエーションの世界で最も高齢にして知名度の高い現役パイロットが、当年90歳の高橋淳氏。 淳さんは1941年、日米開戦の年に甲種飛行予科練習生として海軍に入隊、太平洋戦争では一式陸攻のパイロットとして従軍し激戦の中を生き抜き、飛曹長として終戦。 戦後は小型機とグライダーに没頭、教官を兼ねたフリーパイロットとして現在も活躍中の人。 「俺は飛んでいる間じゅうエンジンが止まったら何処へ不時着するか、いつも下の地形を見ながら飛んでいるよ」。 これは昔、ベテランパイロットの淳さんから聞いた忘れられない言葉だが、それ以来僕は、陸地はもちろんのこと洋上飛行の場合でも万一のときは、航行中の船のなるべく近くに着水することを心がけながら飛んでいたものだ。 

「ハドソン川の奇跡」とは、2009年1月15日午後3時30分ごろニューヨーク発シャーロット経由シアトル行きUSエアウエイズ1549便が、ニューヨーク市マンハッタン区付近のハドソン川に不時着水した事故で、乗員乗客全員が助かったことから、ニューヨーク州知事のデビッド・パターソン知事が「Miracle on the Hudson」と呼んで褒め称えた言葉。 実はこの事故の二日後のブログで、航空評論家の秀島一生氏が、「『機長はもしもの時、どこに降りるか』 いつも、考えていたに違いない」 とコメントしてたことを思い出す。 さらに「機長がとった行動、瞬間的な判断と操縦能力にはパイロットの誇りさえ感じる・・・何らかの事由で機の推力が失われたとき何処に降りるのがベストか、とっさに反応できるよう常に身構えてたはず・・・」。

1549便はラガーディア空港離陸直後、バードストライクによって両エンジンがフレーム・アウト(停止)したが、こうした非常時に機外に飛び出し、最低限必要な油圧と電力を供給する「ラムエア・タービン」(風車式動力装置)がすぐに稼動した。 サレンバーガー機長は着水時の衝撃を考慮して機体を川下方向へ反転させ、もっとも最適な降下スピードを維持しながらフェリーや観光船の発着場と、沿岸警備艇や消防艇の停泊するハーバーの近くに、まさに神業の如く流れに乗せるように着水した。 マスコミは「たまたま着水地点に恵まれたため4分20秒後に通勤用フェリーが現場に到着できた」 と報じ機長もこれに対しあえてコメントしなかったが、たまたまでも偶然でもなく、これこそ日頃から何度も繰り返してきたイメージトレーニングの成果。

ところで「バードストライク」だが、鳥との衝突は飛行機の歴史始まってから今日まで付いて廻った厄介な問題。 僕自身も約2000時間のフライトの中で一回だけ仙台空港で経験した。 RW-27を離陸してライトターンしながら上昇中ドーンと大きな衝撃を感じ、一瞬ドキッとしたが何が起きたのか分からない、エンジンや操縦系統に異常のないことを確かめてから仙台タワーに報告し、すぐに着陸の許可を貰った。 ハンガーに戻ると交信をモニターしてた整備員が待っていて、機体前部に大きく凹んだバードストライクの痕跡を確認したのち航空局に書類で報告してくれた。 プロペラ機の時代には衝突でエンジンが停止するようなことはなかったが、ジェットエンジンが主流の現在ではエアインテーク(空気吸入口)に吸い込まれると大事故に繋がる。

例えばボーイングー777のエンジン(GE-90型)ではフアンの直径が3mもあり推力も大きいので事故のリスクも高く、民間の旅客機については離着陸時のバードストライクによる墜落を防ぐため、装備するジェットエンジン開発の段階で4ポンド(1・8kg)の生きた鳥を吸い込ませるテストを行い、吸い込んだ後でも基準を上回る推力が保てることを必須条件にしている。 またボーイングー747のウインドシールド(コクピット前面の風防)が5層構造にしてガラス層の間にビニール層が挟まれているのも、衝突時の衝撃を吸収する安全対策の一つ。 さてサレンバーガー機長の後日談だが、オバマ大統領の就任式に招かれた日の前夜、レストラン「ハドソン」で彼がオーダーしたのが、なんと「グリルドチキン」(焼き鳥)。 もちろんこのジョーキングは報道陣に大受けしたそうだ。
 


「80ヤード独走」 

2012年03月15日 | 小説
今年の2月14日、チョコレートと一緒に送られてきたのがJALの機内誌「SKYWARD」2011/10月号。 3日前の古新聞ならぬ4ヶ月前の古雑誌の何を読めというのか、付箋マーキングの付いたページを開くと、「旅と本・バッグの隙間に忍び込ませたい1冊、男と女の会話でひもとく、ニューヨーク物語」とあり、文・宮川俊二。 僕が日本では馴染みの薄いアメリカの作家「アーウィン・ショー」のフアンであることを、彼女は覚えててくれたのだ。 「好きな本は何ですか?」と聞かれると、即座にショーの短編集「夏服を着た女たち」を挙げる。 私は1993年NHKを退職し、充電と称して1ヶ月ニューヨークに滞在、ジャズやミュージカル三昧の日々を送った。 旅の友は、このアーウィン・ショーだった。

これは冒頭の書き出し。 宮川氏は表題の「夏服を着た女たち」と、「80ヤード独走」の二つを紹介しているが、いちばん惹かれたのが後者だと述べている。 僕の場合は甲乙つけ難いのだが、ショーの長編「ピザンチウムの夜」を訳した推理作家・翻訳家の故小泉喜美子氏は、あとがきの中でこう書いている。 「80ヤード独走」(「ミステリ・マガジン」1963年10月号所載)を読んだときの感激を私は忘れることができません。 それどころか、そのときの刺激を土台の一つにして、今日までどうにかものを書いてきたとさえ言えるのです。 男というのはこうやって生きていくんだ。 あるいはこうやって死んで行くんだ、みたいなところが鮮やかに描かれていたからでしょう。

男女は平等とは申しますが、ショーの作品には女には真似したくても真似のできない、ある種の男たちの姿がいきいきと描かれている。 ・・・・男たちの男ゆえの寂しさと誇りをショーは無限の共感をこめて書きつずったのです。 ショーの「80ヤード独走」が「エスクアィヤ」に掲載されたのは、1941年(昭和16年)で彼が28才のとき。 かって大学フットボールの花形選手だった主人公は裕福な家の美しい娘を妻にし、彼女の父が経営する会社のニューヨーク支店を任され、人がうらやむような人生を送れるはずだった・・・。 彼の運命を変えたのは1929年から始まる史上最大規模の世界恐慌、義父は1933年まで待って自分の頭を吹き飛ばし、彼ら二人は下町に移リ、妻はファッション雑誌の仕事を見つけ、彼は午後2時からスコッチを飲むようになる。

やがて妻は編集部の要職につき、名士と酒を飲みに出かけたりしてたくさんの人脈を作っていったが、その一人ひとりを忠実に彼に紹介した。 彼もまた少しでも妻に追いつこうと、画廊や音楽界や書店に通ったりするが結局は身に付かず、しまいには諦めてしまう。 一人で夕食をとる晩が多くなり、夜遅く帰っても言い訳もせずに黙ってベッドに入ってしまう妻と離婚することも考えるが、二度と会えなくなる孤独と絶望にはとても耐えられない。 だから彼は妻に対して親切で献身的だったし、転職を繰り返しながら高給のとれる就職先を探す。 そして彼は全国の大学を回る紳士服販売の仕事を見つける。 マネージャーは言う、「初対面で『大学を出た人だ』と思わせる人が欲しいんです、あなたの事は調査したが、あなたは母校の大学で有名な人だ」。 

その夜彼は妻に報告する。 「週に50ドルにもなるんだ、それから必要経費も出る、金をためてニューヨークへ戻れば再出発もできる。 それに月1回は帰ってこられるし、休日と夏休みは一緒に居られるよ」。 しかし心の中で願っていた言葉は「嫌よあなた、あなたはここに居るのよ」、しかし妻はやはり思っていたとおりのことを口にした、「勤めたほうがいいと思うわ」。 彼は80ヤードを独走し、タッチダウンした15年前を振り返りながらやっと気ずく、「たぶん僕は間違ったことを練習したのだ」。 ショーは教えてくれる、「人生には予期せぬことも起きる。 しかし男は生きていかなければならない」と。  事業に失敗してから読み返したこの短編は僕の心に浸みた。     


伊豆諸島・「御蔵島」と、大奥スキャンダルとの関係

2012年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
小型機で仙台から八丈島までのフライトはおよそ2時間、スモッグで視界の悪い東京都内を抜け江ノ島上空まで来ると伊豆大島がぼんやり見え、ここからは眼下に伊豆諸島の島々が次々と切れ間なく姿を見せてくれる。 大島を過ぎ神津島を右手に見ながら利島、新島の先に三宅島が現れ、そのすぐ先(19km)に在るのが御蔵島(みくらじま」。 東京からおよそ200km周囲17kmのちいさな円形の島で、海岸周辺は高い絶壁に囲まれ島全体が豊かな原生林に覆われる人口300人弱の小島。 東海汽船の船便で東京から葯8時間かけて辿り着く孤島のイメージがこの島の魅力だったが、その後ヘリポートができて大島や三宅島の空港経由で簡単に来れるようになってしまったのは少々残念。

僕がこの島に興味を持ったのは、作家の有吉佐和子が島に長期滞在して執筆したという「海暗」を友人から借りて読んだからで、それから島の上空を飛ぶたびに一度来てみたいと思いながら、ついぞ実現できなかった。 さて御蔵島の歴史上重要な人物として「奥山交竹院」なる男が登場するが、彼こそが江戸時代に大奥で起きたスキャンダルに連座し、御蔵島へ島送りとなった大奥御殿医で、この島のためひと働きすることになる・・・。 そもそもスキャンダルとは江戸中期、江戸城大奥御年寄りの「江島」と歌舞伎役者の「生島新吾五郎」ら多数が処罰された風紀粛清事件。 江島らは前将軍家宣の墓参りの帰途、懇意にしていた呉服商の誘いで芝居小屋・山村座で生島の舞台を観た後、生島らを茶屋に招いて宴会をしたが、大奥の門限に遅れてしまう。 

このことが城中に知れ渡り評定所が審理するところとなり、江島は死一等を減じて高遠藩お預けとなったが事実上の流罪、旗本であった江島の兄は斬首、生島は三宅島への遠島。 山村座は廃座となり座長は伊豆大島へ遠島、そして江島の取り巻きで利権を被っていたとして奥山交竹院は御蔵島へ遠島となった。 事件の背景には大奥における勢力争いがあったと言われるが、多くの連座者が出て最終的には1500名の関係者が罰せられた。 ところで江戸時代の1683年から御蔵島は三宅島の属領となり、役人の過酷な搾取や不当な支配の時代になると島民の暮らしは困窮を極め、さらに島の人口が増え食糧問題はますます深刻となる。

当時の島の神主・加藤蔵人は、農作物を島の外から買い入れる資金を得るため、材質が硬く印材・版木・将棋の駒・数珠などの素材となる島の特産「ツゲ」や、繭を自前の船で江戸に出荷するため船の購入を代官所に申し出ていたが、1730年これが許可される。 御蔵島は伊豆諸島で最初に廻船を持つ島となる。 廻船を持っようになった御蔵島は三宅島の属領から脱して幕府の直轄になるべく代官所に申し出るが、これは一筋縄に行く話ではなく加藤は思案の末、大奥に影響力のある人脈を持つ流人、奥山交竹院の力を借りることになる。 島でとくに厚遇を受けていた奥山は、かっての同僚で江戸城内の御殿医桂川甫築に幕府へ取り成しを依頼し、交竹院の死後であったが遂に御蔵島は43年ぶりに三宅島からの独立を果たした。

 しかしその後も近年まで物流・交通・観光など経済や生活面の多くを三宅島に依存してきた御蔵島だったが、2000年の三宅島噴火で状況は一変する。 三宅島との連絡船をはじめ既存の交通体系を失った御蔵島へ、代替として東京からの船便が大幅増便され、やがて毎日就航まで拡大された。 その間に宿泊設備を拡充させた御蔵島は、東京と共同でエコ・ツーリズムの推進を打ち出し、イルカや原生林など動植物の保護と観光を一体化する政策を実現しさせ、御蔵島の名前を全国区に押し上げることに成功する。 その結果三宅島としては重要なマーケットを失い、その立場は逆転した。 かっては三宅島の属領として搾取され、その後も大きな影響下に置かれていた御蔵島は、300余年を経て本当の自立を果たしたのだ。 



   
















     


北周りヨーロッパ線のパイオニア「スカンジナビア航空]と、DC-7型機

2012年03月05日 | 航空機
日本とヨーロッパを結ぶ航空路は、1950年代後半まで東南アジアや西アジアと中東を経由するのが主要ルートだったが、50時間を越す所要時間の長さとそれに伴う乗員管理・南方特有の気象状況・寄港地国の空港の不備・政情不安などで問題視されていた。 最も短い航空路ははソビエト上空を飛ぶルートだったが第二次世界大戦後の冷戦下、ソビエトは西側諸国の航空機が自国上空を飛行することに厳しい規制を実施していたため航路の開設は不可能だった。 当時のジェプセン・チャートには 「ソビエト領空を審判した場合、無警告で撃墜される恐れがあります」 と赤字で記述されていた。 1978年には航法ミスで領空進入した大韓航空のボーイング707がソ連機にコラ半島上空で銃撃され凍結湖に不時着、2名が死亡し、1983年には同じ航法ミスで領空侵犯した大韓航空のボーイング747が、サハリン上空で撃墜され乗員乗客全員が死亡する惨事が起きている。 

そうした状況下ソビエトの連邦上空を迂回して、日本とヨーロッパを結ぶ北極圏ルートの開設に一番乗りしたのは英国航空でもなく、エールフランスでもなく、ルフトハンザでもなく 北極を拠点とする「SAS・スカンジナビア航空」(スエーデン・デンマーク・ノルウエー3国の出資によるナショナル・フラッグキャリア)で、かって「兼高かおる世界の旅」スポンサーとしてお馴染みの企業。 北極圏を横断する場合、子午線の間隔が次第に狭くなりやがて北極の一点に達する従来のチャートでは、ナビゲーターがフライト中つねにコースの是正を繰り返さなければならない。 とくに春分や秋分の薄暮の季節には星や太陽の位置が測定できず、また磁北極はチャートの北極点より1600kmずれているため、これまでの磁気コンパスでは常に南を指してしまい、正確に方位を把握することが極めて難しかった。 

航路開発に当たりSASがまず取り組んだのは従来のチャートに代わる北極地図。 グリニッジを南にして子午線の0度を通し、アラスカから南太平洋に伸びる線を便宜上「北」にした、いわゆるポーラー・グリッド地図を完成する。 コンパスについては高速回転するコマの原理を用いて方位を知る北極専用のジャイロコンパスを開発、離陸前にセットしたへディングを20時間持続することができ、正確なフライトが可能となった。 1957年2月24日9時40分,SASの「DC-7C」ライダー・バイキング号が45名の招待客を乗せて羽田空港を離陸、アンカレッジ経由でコペンハーゲンを目指した。 実は同じ日にコペンハーゲンからもDC-7Cグトーム・バイキング号が東京へ向けて出発している。

両機は北極上空ですれ違う。 ライダー号の高度3900m、グトーム号は3600m、互いの機影が見えたタイミングで、デンマークのハンセン首相(当時)が北極宣言書を読み上げ、その声は21カ国に中継された。 コペンハーゲンから東京に到着したグトーム・バイキング号の所要時間は35時間37分。 ところでダグラスDC-7はアメリカ合衆国・ダグラス・エアクラフト社が開発した最後の大型レシプロ機。 当時DC-6Bを運行していたアメリカン航空は、ライバルのトランス・ワールド航空が運航するロッキードL-1049G・スーパーコンステレーション機に対抗して、アメリカ大陸無着陸横断飛行が可能な新型機の開発をダグラス社に依頼したことで、開発されたのがDC-7型機。

DC-6Bの胴体と翼を延長し、エンジンをより強力なライトR-3350・サイクロンに換装して1953年路線就航した。 スペックは長距離巡航速度441km/h、座席数36席(国際線用)~102席(国内線用)、航続距離(最大ペイロード)7450km。 DC-7は大手航空会社の主要路線に就航したが、エンジンの信頼性に問題がありさらに室内における騒音が酷かったため胴体に3mのストレッチを施し、主翼を胴体から3m延長して振動と騒音を減少させたのがDCー7C・セブンシーズ。 しかし後継機となるジェット機・DC-8の生産が1959年に始まったことから僅か5年間で生産が打ち切られ、計338機が製造されるにとどまった。 また北回りヨーロッパ線も航続距離が向上した新型機の出現と、冷戦終結によるシベリアルートの開放策で、日本航空は1991年この路線を廃止した。            







 
















  


末期がんの友人に頼られたら・・・・(2)

2012年03月01日 | 健康・病気
正月明けの午後、尋ねてきた彼は見違えるように元気になっている。 息子達が集まった正月、彼は僕が貸してやったラジウム鉱石を長男に見せたところ、「親父これは本物だよ」と太鼓判を押してくれたそうだ。 ところで不思議なめぐり合わせだと驚いたのは、この長男が大学で物理学を学び、今では放射線関連の仕事に従事しているその道の専門家だったこと。 但し放射線に対して国民がナーバスになっている現在、専門的な発言が政治的に利用されると困るのだがと、前置きした上で、長男は次のような説明をしてくれた。 石に明示されいる110マイクロシーベルト/hr という数値は低線量に属し、補助医療に使っても害はなく、細胞や組織に重大な損傷を与える活性酸素を抑制する効果があり、さらに免疫力を高めるという。

また放射線は少しでも離すと線量が低下するから、袋に入った石を直に患部に当てて使用するのが効果的で、僕がやってたように寝るとき脇に置いてただけではダメなことが分かった。 さらに毎日当ててた時間を記録に取り、トータルで100ミリシーベルト(10万マイクロシーベルト)になったら一度休むように指示された。 彼は入浴時を除いて腰痛バンドに挟んだ石を、ほとんど一日中肌身離さず当てているが、息子の言った通リ電磁波の働きで体中が温まり、効いているような気分になるらしい。 効果としては肝臓の腫れがまさしく小さくなり、胃への圧迫が無くなり食事が食べられるようになったので、体重が1キロ増え、さらに副作用による便秘の症状が軽くなったと喜んでいた。

鉱石の話は担当医に伏せているが、その後の経過が順調なので次の治療が可能だと判断した主治医は、2回目の「塞戦術治療」を1月中旬から末にかけ12日間入院して行っている。 しかしこの治療で彼はふたたび体調を崩してしまった。 1回目では様子を見るため少なめにしていた抗がん剤を4倍に増やしたため、さすがに体へのダメージが大きかったようでようで、一時は小さくなった肝臓の腫れが以前にも増して最大に腫れあがり、担当医から絶対にぶつけたりしないよう厳しく注意を受けていた。 僕が彼の治療経緯を報告しながら相談していた前立腺がん患者会のM会長からは、せっかく小康状態まできたのだから抗がん剤治療を中止して、補助医療と食事療法でやってみてはどうかとアドヴァイスされた。 抗がん剤の副作用を心配しているのだ。

たしかに去年、肝癌の再発で抗がん剤治療を受けた僕の友人も、治療を始めた途端に食欲不振、発熱、口内炎などで体調を崩し、僅か半月であっという間に亡くなってしまった。 それまで元気だっただけに抗がん剤が寿命を縮めたと、回りの誰もが思ったものだ。 しかし僕は会長の提言を彼に言わなかった。 命に関わることだけに、もし裏目に出たときの責任問題や、奥さんが働きに出ている彼の家庭事情で、時間と手間と費用が長期にわたって必要な食事療法など、とても無理なことを知っていたからだ。 会長の場合も費用を節約するため自家製のサブリメントを造ったり、三食の自然食を作るのが奥さんだけで対応しきれず、娘さんが海外留学を断念して手伝ったと著書の中で語っている。 「最後は家族が救う」と言われる所以だ。  

それでも2月の中旬に顔を見せた彼は、やつれてはいるものの少しずつ食欲も回復してきたので、3度目の治療を受けるつもりだと前向きだったのでほっとした。 また鉱石に対する彼の期待はますます大きく、100ミリシーベルトに達して暫く休んでいた鉱石使用を再開したので、次の治療も無事に乗り越えられると張り切っていた。 余命3ヶ月のリミットは2月だったがこの調子だと桜の花は見れるな、などと考えながらながら彼の話を聞いていたが、5月に入ったら僕の女房が好きな山菜を採ってきて食べさせたいと彼が言う。 死への恐怖が吹っ切れた彼に感動し喜んだ僕らは、野菜ジュース2ケースを車まで運んで、彼の帰宅を見送った。 それから1週間後、3回目の治療を2月末から始めるという知らせてきた彼の声が弾んで聞こえた。